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黄昏ブランコ

 沙織が身体を揺らすたびにブランコの錆びた鎖はキィキィ悲鳴をあげた。いまにもちりぢりに千切れてしまいそうなのに、その音は昔からちっとも変わらない。高くなることも低くなることもない。そのせいなのか取り換えられる気配もなかった。黒く変色したサビが永遠に消えない刻印のように輪っかを斑模様にしている。
 乾いてざらついた表面に陽があたる。ふいに、サビの奥底で炎が息づくように煌めいた。瞬く間に消える炎に沙織は当然気がつかない。
 わたしは鎖の軋む音が苦手だった。人には発せられない鋭さで鳴る音がおそろしい怪物の鳴き声みたいに思えるから。聞こえると首筋が強張った。両脇が勝手にすぼまって体温計を挟むような格好をつくる。自宅であるマンションへは公園の前を通るほかになく、聞こえたときは音の余韻が届かないところまで早足で歩いた。
 それでも沙織が乗っているときだけは平気。あんなにおそろしい鳴き声が不器用で愛らしい楽器の奏でる音に聞こえるから不思議だ。
 夕焼けが雲を吸い込んで燃える、こんな時間にはなおのこと。
 キィキィ ブランコは規則的に鳴った。
 キィキィ 何往復してもその音は前奏のまま、沙織は歌うこともなければ手足を叩くこともしない。ただ目を閉じてブランコを漕ぐ。空へ靴先を切り込み、地面すれすれで膝を折る。
ストロベリーブロンドの髪が追いかけっこするように前へ後ろへ流れていく。
 色も形も西の水平線に浮かぶ雲とよく似ていて、わたしの目のなかで空の端と沙織がひとつづきに繋がってしまう。
 そのまま西の果てへ飛び立ってしまうのではないかという不安を燻らせながら、同時に見えるままパノラマ写真にして飾りたい気持ちになる。
 フレームはいらない。澄んだアクリル板に挟んで壁に飾るのだ。部屋に西日が射すとき、アクリルの淵は橙に染まり壁との境を溶かして、沙織はいっそう広くブランコを揺らすだろう。
 鎖に貼り付いていた桜の花弁が止まない往復に堪えかねてするりと舞った。
 記憶の底から蘇ったように響くチャイムの音すら無視してブランコはキィキィ鳴りつづける。
 むかしから、沙織と出会った日から、その音は変わらない。

 幼稚園の帰りだった。公園を覗くと、この辺りでは見かけない水色のスモッグを着た女の子がブランコを漕いでいた。
 その頃からブランコは悲鳴をあげていたし、わたしはその鳴き声が苦手だった。それにわたしはママから「あぶないからあのブランコに乗ってはダメよ」と言いつけられていた。
 けれどその女の子は怖じることなく座面を踏みつけて鎖を握り、悠々と風を切っていた。背筋はぴんと伸びて、屈伸するたびに背丈が縮んでも身体は少しも揺れなかった。
 女の子の影が地面を押さえたままするすると丸まったり長くなったりしている。影さえも自由だった。
 公園にはブランコのほかに砂場とすべり台とバネのついたバンダの遊具がある。
正方形の砂場には洗剤の空ボトルが落ちていて、すべり台の斜面は岩山のようにデコボコだった。パンダはブランコより低い声で唸り、白い胸が擦れるほどたわんだ。どこにも遊んでいる子供はいなかった。
 砂場もすべり台もパンダもただ静かに夜が来るのを待っていた。沙織だけが、ブランコをキィキィ鳴らして、影を自由に伸び縮みさせ、夕日に輪郭を燃やしていた。
 生まれてはじめて誰かをカッコイイと思った。

 仲良く二つ下がったブランコの片方 ―東側と決めている。そちらのほうが音がしなかった― に座って、行きつ戻りつを繰り返す沙織を見つめる。
 わたしはけしてブランコを揺らさない。靴底をぴたりと地面につけたまま膝の上の鞄を抱いていた。漕いでみたこともあるけれど、不安が勝ってちっとも楽しい気持ちになれなかった。
 両足の脇で花びらが安心しきった様子で重なりあっている。わたしが座っているかぎり蹴散らされる心配はない。
公園の入り口に植えられた桜の木は毎春ささやかに花をつけた。枝の隙間から見えすぎるくらい空が見える。見上げると花よりも空を見ている気分になる、そんな桜の木だ。
今年もささやかに咲いて、ささやかに散った。散っていることにも気がつかなかった。
鎖から舞ったはずの花弁が沙織の毛先に乗っている。薄い全身を風に煽られながら髪と一緒に揺られている。
「いいなぁ」
 吐いた息が思わず言葉を成していた。
「なにが?」
 ゆらゆらと速度を落としてから沙織が振り向いた。
 とたんに鎖が物足りなそうにキッキッと鳴き始める。髪はじゃれるのを止め、駄々っ子のように背中をはたはた叩いた。
 綺麗にカールした睫の下でグレーの瞳が濃い輪郭を露にする。薄い色のカラコンは沙織によく似合っていた。この前までは薄氷みたいなブルーだったけれど、グレーのほうがわたしは好きだ。
 なにが「いいなぁ」だったのか、もう思い出せない。
「それって世界がモノクロに見えるの?」と言ったら沙織は可笑しそうに笑った。グレーのフィルターをかけているのとは違うらしい。
 たしかに。グレーの目でモノクロに見えるのなら、沙織の目が青かったとき世界は海の底に沈んでいたことになる。そんなはずはない。
「佳奈は、モノクロでもあんま変わんないだろうね」
 沙織の声はなぜか嬉しそうだった。嬉しそうに笑いながら、地面を蹴った。
 鎖がいっそう声高く歌いだす。待ってましたと言わんばかりに橙の空に髪はたなびく。
「よかった」
 世界がモノクロじゃなくて。
「わたしは、モノクロでもよかったよ?」
 沙織はそう言ってブランコを止めると淀みなく腰を上げた。それは夜がもうわたしのすぐ背中まで迫っている合図だった。
 そろそろ、帰ろうか。
 幾百となく並んで過ごしてきた二人には口に出す必要さえない。馴染んだ動作をなぞって沙織は足元の鞄を拾い、わたしは立ち上がる。
 夕日が沈んでも、夜がすべてを覆っても、けしてはぐれることのないように、わたしたちは手を繋いで桜の木をくぐった。

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