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畑で育てた野菜を料理したら、人を生かすことを学んだ

はじめての夏野菜の収穫期を迎えた。

秋冬野菜のじっくりと育っていく感じとは打って変わって、数日見ないうちに様変わりするほどの成長スピードに驚かされている。そして、色の鮮やかに元気をもらっている。

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種や苗の頃から成長を見つづけた野菜には愛着が湧くので、採れたものはできるだけ美味しくいただこう、と思う。それが自分にできるせめてものことだと。

そんなことを考えていると、料理の考え方も少し変わってきた。

「素材を生かそう」と思うと、まずは「あまり手を加えない」ことを思い浮かべる。たとえばトマトやキュウリなら、採れたてを、生のまま、何もつけずに、あるいは塩だけで食べる、みたいな。もちろんそれはきっと間違いではない。たしかに、美味しい。

けれど、それで全て食べきってしまったら(そもそも、そんな風に食べられない野菜もある)、それは新鮮な命を頂いたことにはなるけれど、「素材を生かす」とはちょっと違うような気もしてくる。

そこで、調理を考える。たとえば、ナス。塩もみしたり、酢に漬けたり、蒸したり、焼いたり、揚げたり、煮たり、してみる。どれが、「このナス」の美味しさを一番引き立てるのかを探りに行く。

ここでのポイントは、「一般的なナス」にとって一番の調理法ではなくて、「このナス」にとって一番の調理法を探すこと。だからネット上のレシピはとても参考になるけれど、答えではない。

私たちは普段、野菜を料理の材料として考える。たとえば、カレーを作ろうと思って、玉ねぎと、ニンジンと、ピーマンと、ナスを揃える、というように。

そこでは、あくまで野菜はカレーのためにあるのであって、カレーが野菜のためにあるのではない。

でも採れたての野菜を前にして、それを生かそうと考えると、その素材のための調理方法を考えざるを得なくなる。料理のための野菜ではなくて、野菜のための料理。

それは野菜によっても違うし、同じ「ナス」でも種類によって違うし、同じ種類の「ナス」でも、「この畑のナス」あるいは「今日のナス」は違うかもしれない。食べる人の味覚によっても違う。そんな果てしない探求。

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これは、もしかすると人間社会にも当てはまるのかもしれない。組織のための人ではなく、人のための組織。社会のための人ではなく、人のための社会。

「人」を生かすということ。「この人」を生かすということ。翻って「自分」を生かすということ。

それはまず、目の前の個体と向き合うということ。ネット上に、答えはないということ。昨日と今日は違うということ。探し続けるということ。

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