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自分のスピリットに触れる

その時は自分でも理解できなかったけれど、後になってその意味が少しずつわかってくる、ことはよくある。

もう10年近く前だけれど、「ここままじゃいけない」と思いながら、ずるずると続けていた仕事を、ある時ぱっと辞めた。後になって、その時のことを、なぜ?と聞かれると、

たぶん、坐禅をしていたからだと思う

と答えていた。

感覚的にはそうなのだけれど、でも、説明はできなかった。聞いた方も「ふーん」という感じになる。

でも最近、ほんの少し、その訳がわかりかけている気がする。


坐禅とスピリット

その理由の一つは、5月くらいから毎朝、ヨーガと瞑想をするようになって、ようやくそれがルーティーンになりつつあること。(最初はAM5:20のリアルタイムで参加していたのが、最近は、1時間遅れくらいで届くアーカイブを見ながらになってはいるけれど。)


もう一つは、6月に、オステオパシーを始めとした施術者が沖縄で営む「読谷ホリスティックス」で、『からだ・こころ・スピリット』という考え方にどっぷり触れたこと。


ヨーガの「ポーズ(アーサナ)や呼吸を通じて身体を整えることで、心の波立ちが静まり、瞑想の中で本当の自分に出会うことができる」という考え方。

読谷ホリスティックスの「人は『Body・Mind・Sprit』で構成されている」という考え方。そして「現代人は、マインド(思考や感情)に支配されがちで、それが身体にも多大な影響を与えている。このマインドの支配から自由になることで、身体は本来持っている自然治癒力を解き放つことができるし、マインドが静まると、そこにスピリット(生まれたときから変わらずにあるもの)が姿を現してくる」という考え方。

これらを学び、毎日わずかずつ身に沁み込ませていく中で、なんとなくわかってきた。なぜ、坐禅が、仕事を辞めることにつながったのか。それは、

自分のスピリットに触れたから

ということなのではないかと。

長く生きれば生きるほど、身体という器に、あとからあとから、いろんな知識と、経験と、それに伴う感情と、そこから作り上げた思考と、価値観と判断と、そういうものが絡まり合って積み重なっていく。その積み重なりは人の成長でもあるから、それ自体が悪いわけではない。けれどその裏で、始めからそこにあったスピリットは覆い隠されていく。そういうことなのではないかと。

当時、理由はわからず、ただ座った。ただ30分座るために、1時間かけてお寺に行った。それを続けているうちに、仕事をやめることがごく当然のことに、その選択しかないように思えてきた

それが、自分のスピリットに触れた、という感覚だったのかもしれない。



スピリットは「いま、ここ」にしかいない

そして、たぶんだけれど、スピリットは「いま、ここ」にしか存在しない。過ぎたことの後悔、これからの心配、いつもそんなことばっかりだけれど、それはマインドの仕業で、スピリットはいつだって「いま、ここ」に悠然といるだけ。その一瞬にも満たない一瞬に、ただただ存在している。

だから。坐禅やヨガや瞑想で、「いま、ここ」に繋がることで、スピリットに触れることができる。「いま、ここ」に繋がった時だけ、スピリットに触れることができる。

いまだに、過去と未来を右往左往するばかりのマインド、これは良いこれは悪いと決めつけたがるマインドに、毎朝毎晩手を焼きながら、少しでもスピリットとともにありたいと思っている。

といいながら、人の心や身体やスピリットについては、まだまだ勉強不足すぎるので、しばらく探求し続けてみる。その探求は、一生つづくのかもしれない。



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