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一行の詩に、生かされている ~俳人 河内静魚さんに聴く(後編)俳句との出会いから

大学卒業の年に、入社と退社を2回繰り返し、3社目で俳句と出会う。「年寄り臭い」と思いつつも付き合いで始めてから、まもなく50年。今では俳句を心から楽しみ、「俳句は生きること」と語る俳人 河内静魚さん。たった一行の詩が、なぜ、これだけの力を人に与え続けることができるのか。静魚さんが歩まれた道のりを辿りながら、その謎を紐解いていく後編です。

(前編)静魚さん略歴/俳句と出会うまで

俳句との出会いから

職場句会から、ひとり修行の道へ

――3社目で、ついに俳句と出会われるのですね。

入社してから5つめの部署には25名が働いていて、8割が俳句をしていました。担当理事と部長が熱心だったのです。当時、私は「こんな年より臭いことはしたくない」と思っていましたが、俳句をやらないと会話に入れない、句会が近づくとみんなソワソワしている、という環境。麻雀とゴルフには一切付き合いませんでしたが、飲み会と俳句には付き合いました。

実際にやってみると、楽しかった。季語を入れて、五七五で言いたいことを言って、鑑賞し合う。酒の肴にもなる。特に、俳句は匿名で鑑賞し合うので、上下関係なく、良いものは良い、ダメなものはダメ、と言い合えるのが楽しかった。

そのうち、句会での講評や指導に違和感を覚えることがあったり、自分なりに「俳句って何だろう」と考え始めた。試しに朝日俳壇に投句してみると、通ったりもして、「もし職場のしがらみに囚われず、純粋にやったらどうなるだろう」という気持ちが湧いてきたのです。

――そこから本格的な俳句の活動が始まるのですね。

当時は、本屋で結社誌が売られていました。そこで「馬酔木」を見つけます。創始者の水原秋櫻子の句集に「こんなに美しい世界があるのか!」と感動して、「こういう世界でやってみたい」と思いました。既に秋櫻子は亡くなっていましたが、「馬酔木」を買って、投句を始めます。それを1年くらい続けました。

次に、加藤楸邨や森澄雄の俳句が面白いと思うようになった。暗めの句が気に入ったのです。どうやったら会員になれるのだろうと考え、楸邨先生のお宅に電話をかけました。

――すごい行動力ですね。

ちょうど編集会議をしていた様子で、電話に出られた編集長に、私はこう訊きました。「いま30歳なのですが、俳句が面白くなり始めた。もっと勉強したいのですが、もう遅いでしょうか?」。すると編集長は、即座に「遅くないよ!」と。

そこから、俳誌「寒雷」(加藤楸邨氏が1940年に創刊)を送ってもらうようになりました。俳誌には、5句投句して1句しか載らないことも珍しくありませんでした。句会には80-90名が参加していて、1人2句しか出せない。ほとんど誰からも選ばれない時期が3年くらい続きました。しまいには、句会で隣の女性から「楸邨先生のお話を聞いているだけじゃなくて、投句なさったら?」と言われてしまった。

――投句していないと思われたんですね。

ただ、その方が「私の先生が、もっと少人数でやっていて、いろいろ教えてもらえる句会があるから、そっちに来てみたら?」と誘ってくれました。それが、田川飛旅子(ひりょし)氏の「陸」だった。それから「陸」の句会に出て、句誌も取るようになります。

32歳から数年は、転勤で宮城県へ行きましたが、「寒雷」や「陸」への投句は続けていました。

号泣して、幕が開く

――その後、東京に戻って、再び句会に出られるようになるのですね。

「寒雷」の句会では相変わらず誰にもとられない時期が続きました。ところが、ある日の句会の最後、楸邨先生が毎回1句のみの特選の発表で、「今日の特選は、本当に良い句でした」と言って、私の句を読み上げたのです。

われ佇てば一感嘆符夏木立  静魚

「どなたですか?」と訊かれて名乗り、立ち上がったまま、私は号泣しました。また別の句会でも、楸邨先生に激賞され、大泣きしたことがありました。

蟹の背の不思議な広さ春の雲 静魚

大泣きした句会のあとの2次会で、川崎展宏さん(「日経俳壇」選者や「朝日俳壇」選者も務められた)に「みっともない」とこっぴどく怒られ、土下座させられました。「売名行為」だと思われたのかもしれませんが、私はただただ純粋に嬉しかっただけなのです。

それから「泣き虫静魚」と呼ばれるようになりました。

――修行の時期を思うと、ようやく主宰と通じ合えた感動が大きかったのですね。

これを機に、俳人として名前が知られるようになり、いろいろと声をかけてもらうようになりました。

「寒雷」の同人で、「炎環」の主宰をされていた石寒太さんもその一人。「炎環」が一周年を迎える頃で「私の句会にも遊びにこないか?」と誘ってくれました。句会へ行くと、「寒雷で活躍している静魚さんです」なんて紹介されて。

「炎環」には会員が300-400人いて、普通は、その中から実績を積んだ人が「同人」になるところ、最初から「同人」として入ってくれと言われたのです。そのうち、句会の進行までやるようになりました。

平成4年(1992年)に、毎日新聞社が『俳句αあるふぁ』を創刊して、その編集長を寒太さんが務めます。その創刊号で「若い人の対談を載せたい。やってくれないか?」と私に声がかかりました。そこで、夏石番矢さん(世界俳句協会の創立者。当時、明治大学法学部助教授)と対談。これで、俳壇に名前が知られるようになってしまいました。

その対談会場は、なんと、あの「生涯で最も心に残る半日」を過ごした、毎日新聞の社長室だったのです。

結社を作ってください

――なんという偶然!そして俳句の活動は、どんどん広がっていきますね。

その頃も「寒雷」には欠かさず投句していました。巻頭も何度かとって、37歳で同人にもなり、楸邨先生との座談会もしました。一方の「炎環」の方でも、勉強を続けていました。

しかし、平成5年(1993年)に楸邨先生が亡くなって、「寒雷に残っていても仕方がないかな」という気持ちにもなり始めていました。

その間にも、いろいろな方たちから「句会やりましょうよ」と声をかけられるように。「俳句好きの人たちを集めてやりたい。指導者になってくれ」と言われて結成したのが、「モノローグの会」です。俳優の小倉一郎さんや松岡みどりさんも参加して、6-7年続きました。

さらに、ケーブルテレビのジェイコム東京から「俳句の番組つくりたい」という話がきて、1年ほど講師として出演しました。東小金井のスタジオで夜7時~10時に撮影し、終わったら0時頃まで打ち上げをする。そんな生活をしていました。

新潮社本社の会議室でも2年くらい小句会を開いていました。冨士眞奈美さんや、新潮社の編集者が参加していました。

朝日俳句新人賞に応募して、第4回で準賞を獲りました。初めていたただいた、賞らしい賞でした。

――俳句の活動がさらに枝葉をぐんぐん広げ、実をつけていったように感じます。

活動が広がっていく一方で、「寒雷」や「炎環」とは、少し距離ができ始めていました。

そんな時、「モノローグの会」で一緒だった小倉一郎さんから、「私が人を集めるから、結社を作ってください。先生、男になってください!」と頭を下げられてしまいました。

「そういう性格ではないから続かないかもしれないけど、まあやってみましょう」という感じで、引き受けました。そして、「寒雷」「炎環」を退会し、平成16年(2004年)1月、結社「毬」を立ち上げます。

明日から、編集長になってくれ

――結社を立ち上げられて約10年後に、会社を退職されたのですね。

会社では、広報・職業訓練・高齢者の労働・新会社の立ち上げ支援・福利厚生など、いろいろ担当しました。65歳までは働けたのですが、64歳になったら年金ももらえるというので退職しました。年金生活は、毎日が日曜日。まさに理想の生活! 3年間、自由を謳歌していました。このままあの世まで、という気持ちで。

――大学時代を思い出しますね。でも、そうはいかなかったのですね。

いつものように自宅近くの上野公園を散歩して、いつものベンチでのんびりと昼寝をしていた時でした。突然、電話が鳴ったのです。「文學の森」の会長からでした。以前、月刊「俳句界」で、初心者向けのページを1年くらい担当していたことがあったのです。

福岡にいるとのことで、たわいもない話が続いたあと、「ところで、今何してる?」と聞かれました。何って昼寝を・・と思っていると、突然「編集長をやってみる気ないか?」と言われたのです。

当時の編集長が急に辞職されることになって困っている、という話でした。「協力してくれないか。明日、会ってくれ」と言って、翌日、社長と一緒に飛行機で福岡から飛んできました。そして「明日から来てくれ」と真顔で言って、また福岡に帰って行かれました。

――またしても、衝撃的な電話がかかってきましたね。

編集の経験もないし、半年で嫌になるかも、と思いましたが、会長さんから頭を下げられたら断れません。とりあえず、頼まれたら何でも引き受ける性格なんです。結局、編集長として2年間も働いてしまいました。結社の主宰をしながら、編集のプロでもないのに俳句総合誌の編集長をやった、という人はめずらしい。過去にも、西東三鬼(角川「俳句」編集長)と大野林火(角川「俳句」編集長)くらいじゃないでしょうか。

私は、俳句関係協会に入っていないし、「毬」もどこの協会にも入っていません。俳壇的な付き合いが嫌いだったからなのですが、そういう無色透明な存在だったから声がかかった、ということもあるかもしれません。

――その後、上智句会(現在「すはえ」)に関われることになるんですね。

「俳句界」編集長時代、東大俳句会や早稲田大学俳句研究会を自ら取材していたので、母校である上智はどうなっているのだろうと思って調べました。そこで上智句会(のちに「すはえ」と改名)を知り、主宰(当時)の大輪靖宏先生に会いに行ったのです。先生の人柄や見識に触れてファンになり、「もっと身近で話を聞きたい」と思って、上智句会に参加するようになりました。上智出身の俳人とも交流したいという気持ちもありました。

――そのご縁で、今日に至るのですね。ありがとうございます。


一行の詩に、生かされている

――改めて、静魚さんにとって俳句はどういうものですか?

俳句は、生きることです。俳句があるから、楽しくなる。呼吸をするように俳句を作っています。日常の中でも、俳句を作ろうとして作っている、というよりも、頭の中にあったイメージが、ある時ふっと俳句として降って湧いてくる、という感覚に近いです。

私自身は、水原秋櫻子の俳句の美しさに感銘を受けたのが始まりで、自分が作る句も花鳥諷詠です。その後に師とした加藤楸邨は「人間探求派」の一人でしたから、私も「俳句は、人間がいかに生きるべきかを詠むもの」と考えることもありました。その後、師がいなくなり、高浜虚子や高野素十、種田山頭火、尾崎放哉、西東三鬼など、様々な俳人の俳句を読みました。

いろいろな俳句に触れてきて、やはり私にとっては、季語を詠む、花鳥諷詠を詠むことが生きる張り合いになると感じています。季語を詠むということは、すなわち、季語とどう出会ったかを詠むことであって、それは結局、どう生きるべきか、に繋がっていきます。人は、季節に包まれて生きている。季語の世界にどっぷり浸ると、その幸せを感じられるのです。高浜虚子はそれを「極楽の文学」と言いましたが、まさに同感です。俳句という一行の詩に、私は生かされています。

――俳句を作るとは、自然の中に生きることそのもの。とても大切なことを教えていただいた気がします。最後に、静魚さんが考える「良い句」とは何でしょうか。

自分なりに捉まえたものを詠む。それによって、季語が生かされ、新たに再生されるような句。その季語の新たな面が引き出されるような句。それが、良い句ではないでしょうか。

でも、俳句の捉え方は、人それぞれで良いと思います。俳人は、夜空の星のように無限にいる。かつて執筆した評論『わが心の俳人伝』は、その中から偶然に出会った5つの星(俳人)の生涯を追いながら、俳句の楽しさを伝えようとしたものです。俳人の中には、名を為した人も、名を為さなかった人もいる。同じ人でも、時とともに変わっていく。それぞれが、自分の理想を追い求めればよいのだと思います。理想というのは、先生ではなく、もっと高いところ、俳句そのものにある、ということを伝えていきたいです。

私自身は、これだけ長く俳句を詠み続けてきましたが、それでもまだ、なかなかうまく詠めていない。自分が納得できる句を詠みたい。そう思って、今も俳句と向き合い続けています。そしてこれからも、人間と人間との付き合いの中で、俳句を楽しんでいきたい。そう願っています。

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たった一行の詩が、人に与える力。人をつなぐ力。静魚さんが俳句とともに歩まれてきた道のりから、そしてたどり着かれた境地から、その核心に少し触れられたような気がしました。と同時に、底なしの力を持つ俳句の、新たな謎の扉がまた開かれたような気もしました。

最後に、静魚さんの代表句を通して、「季節に包まれている幸福」を、改めて感じてみたいと思います。自由であること、平等であること、「俳句」そのものを師とすること。それを大事にして歩んでこられた静魚さんを包む美しく純粋な世界が、そこに立ち現れてくるようです。

青空は雲ありてこそ西行忌
われ佇てば一感嘆符夏木立
美しきところへ沈む夏夕日
蟹の背の不思議な広さ春の雲
夏風のぶつかつてゐる帽子店
まだ水の色のままなる初氷
蝶生れまづ美しきものへ飛ぶ
ひらかれて白扇薄くなりにけり
海見えてすこし揺れたり初電車

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