見出し画像

一行の詩に、生かされている ~俳人 河内静魚さんに聴く(前編)俳句と出会うまで

大学卒業の年に、入社と退社を2回繰り返し、3社目で俳句と出会う。「年寄り臭い」と思いつつも付き合いで始め、まもなく50年。今では俳句を心から楽しみ、「俳句は生きること」と語る俳人 河内静魚さん。たった一行の詩が、なぜ、これだけの力を人に与え続けることができるのか。静魚さんが歩まれた道のりを辿りながら、その謎を紐解いていきたいと思います。

河内静魚さん 略歴

河内静魚(かわうちせいぎょ)さん
  • 昭和25年/宮城県石巻市生まれ。幼児期に、福島県相馬市に移る。

  • 昭和49年/上智大学を卒業。毎日新聞社入社および退社。東急サービス入社および退社。政府関係機関に入職。(平成26年 退職)

  • 昭和53年/職場句会で俳句を始める。

  • 昭和55年/結社「馬酔木」、続いて「寒雷」入会。以後、「寒雷」を中心に、「陸」「炎環」同人としても活動。

  • 平成元年/「陸」退会。

  • 平成13年/句会「モノローグの会」設立。

  • 平成15年/「寒雷」「炎環」退会。

  • 平成16年/結社「毬」創刊、主宰となる。

  • 平成30年/月刊「俳句界」編集長を務める。(令和2年1月 離任)

<著書> 
句集六冊 評論『わが心の俳人伝』『俳句の楽しさ』その他
<受賞歴>
第四回朝日俳句新人賞準賞
句集『夏風』文學の森大賞準賞

俳句は、平等

―― 結社「毬」を立ち上げられてから、間もなく20年ですね。「毬」は、どんな結社なのですか?

私が理想とする俳句の世界ですね。現在、60名くらい所属していて、みんな友人みたいな関係です。

大事にしているのは、「俳句は平等」ということ。俳句の上に人を造らず、俳句の下に人を造らず。俳句は、心をそのまま読むものであって、そこに上下はない、という考えです。

そもそも、俳人として有名になったから偉いのかというと、そんなことはない。突然すばらしい句を作れるのが人間です。この「俳句は平等」を実現するには、自分のような人が主宰になるのがいい。そう思ったことも、結社を立ち上げようと思った理由の一つです。

だから、多くの結社と違って全員が同人です。昨日入った人も、20年やってきた人も、同じく同人。どっちが偉いわけでもない。句会でどういう句を発表したかがすべてで、それを楽しむもの、と思っています。

また、主宰といっても、私は先生ではなく、「毬」という俳句の園の「園丁」です。あまり表には出ない「応援団長」と言ってもいいかもしれません。先生は、俳句。俳句という形式、俳句という世界が先生。その下で、一人一人が「良い俳句とは何か」を考える。自分の理想を追求する。自分の表現を発表する。お互いに、忌憚のない意見を交わす。そういう場を理想として、主宰を続けています。

俳句と出会うまで

とにかく、自由でいたかった

――そうした俳句観をもって結社設立に至った道のりについて、ここからお聞きしていきたいと思います。

生まれは、宮城県石巻市です。両親は第一子の長女を赤子のうちに亡くしていました。その後は長男、次男、と続いたので「次こそは女の子を!」と期待していたところに生まれたのが、私でした。両親はがっかり。私も子供ながらに居心地の悪さを感じていましたね。

田舎は、人間関係も風土も煩わしく、「田舎を出たい」と思い続けていました。「大学に行きさえすれば脱出できる」と、その一心で大学受験をめざします。東大を受けようと思ったのですが、ちょうど東大闘争の翌年で、入試がなくなってしまった。そこで、慶応・早稲田・上智を受けたら、全部に合格しました。

――すごいですね。そこで、なぜ上智を選ばれたのですか?

勉強には興味がなかったし、卒業して働きたいとも思っていなかった。特に役人や銀行員は、自由がなさそうで嫌だと思っていました。田舎を離れたい、自由な時間を持ちたいという、それだけで大学を受験したので。そこで、一番勉強しなくてよさそうな上智の新聞学科を選んだのです。地元の人たちはみな、私のことを早稲田卒だと思っていますよ。

――念願の田舎脱出を果たして、どんな大学時代を過ごされたのですか?

学校には時々行くだけで、基本的には部屋でごろごろっとしていました。特別にやりたいことも、勉強したいこともない。ある時、母が私の下宿先に来て、部屋に何もない、教科書すらないのを見て、驚いていました。実は、教科書を質屋に入れてしまっていたのです。何にも煩わされたくない。毎日が自由。それが本当に心地よかった。

そんな学生だったので、卒業に5年かかりました。4年生になって、さすがに親に悪いなと思い始めて。アルバイトもせずに仕送りで生活を続けていましたから。このまま生きてはいかれない、とはたと気づいたんです。

偉そうなのが、嫌い

――5年生になって、ようやく就職を考え始めたのですね。

オイルショックで、就職が難しい時代でした。大学に貼りだされる就職情報なんかを見ると、文学部卒で、推薦ももらえない自分が受験できるのは、自由公募をしているマスコミくらいだとわかりました。出版社や新聞社などですが、それほど多くはありません。

文藝春秋社の編集者の選考では、応募者300名から絞られた10名に残ったのですが、そこで落ちました。集英社も、最終面接で落ちてしまいました。次に受けた毎日新聞の記者職は、応募者が2,000名で、採用は30名だけ。そこに入ったのです。

記者には、役人や銀行員にはない、自由があると思っていました。それがいいなと思ったのです。ところが、入社初日に「これは、俺の世界じゃない。一生をいく道ではない」と感じてしまいました。

――あれだけ狭き門だったのに。なぜ、そう感じられたのですか?

新聞社は、その名刺一枚で、政治家すら頭を下げる世界です。その力を使えば相当なことができてしまう。一方で、新聞記者は誰にも頭を下げない。自分はそういうエラそうな生き方はしたくない、と思ったのです。もともと立身出世に興味がなかったのですね。

それに、新聞記者はなりたい人がいっぱいいる。自分が辞めたら、その枠に誰かが入れる。なりたい人に代わってもらう方がいいだろう。そう思って、3ヵ月後に辞表を出しました。

――その3ヵ月の間に、地方部長賞と写真部長賞、2つも賞を獲られたそうですね。辞めて、どうされたのですか?

実家に帰って、1ヵ月半くらい、また食っちゃ寝の生活をしていました。すると、ある日突然、一本の電話がかかってきたのです。毎日新聞の社長室からでした。「明日のお昼に、社長がお会いしたいとのことです」と。

翌日、社長室へ行きました。当時の社長だった山内大介さんから、生い立ちや人生観などについて聞いたり訊かれたり。ひとしきり話した夕方、社長が秘書に「ウィスキーを持ってきてくれ」と言ったのです。そこから、2人きりで飲み始めました。社長は「ずっと若い人と話がしたいと思っていたんだ」と言って。そして「もう休息は十分取っただろう。そろそろ戻って来たいんじゃないか?」と。

――社長直々の説得とは、よほど見込まれていたのですね。それでも断られたのですよね。

会社に不満があったのではなく、「自由でいたい」という個人的な理由なので、今でも社長には申し訳ないと思っています。でも、多忙を極める社長が、あれだけの時間を自分のためだけに割いてくれた。あの半日は、私の人生の中で最も心に残る半日になっています。

社長に説得されたにも関わらず戻らなかった、というので、婚約者を含め周りの人たちには驚かれましたね。どうしようもない奴だ、と。

自分でもそろそろ仕事をして独り立ちせねばと思い、たまたま新聞で見つけた求人記事を切り抜いて、それを持って東京へ行きました。東急サービスの求人だったのですが、そこで専務と面接したら「良い人材だ」と採用になりました。

最初は、財務部に配属されて、グループ会社の挨拶周りでした。タクシー会社やデパート、不動産会社などなど。そんな1ヵ月を過ごし、私は専務にこう言いました。

「1ヵ月お世話になりましたけど、ご期待に沿えないので辞めます。」

専務は、口を開けてびっくりしていました。

嫌だったはずの仕事

――社長に続き、専務もがっかりされたでしょうね。今度は、何が嫌だったのですか?

待遇もよかったし、楽しい仕事でした。でも、やっぱり「自由が持てそうもない」と思ってしまった。

もはや自力で仕事を探すのは無理とあきらめて、両親に相談しました。すると母親の伝手で、政府関係機関の求人を紹介されて。東京に試験を受けに行って、無事に採用となりました。そこからは一本道。任期1年前の64歳まで働きました。あんなに嫌だと思っていた公的職場だったのに、不思議なものです。

―― ついに「一生続けられる仕事」に出会えたのですね。どんなお仕事だったのですか?

国の仕事なのですが、最初は、港湾労働者が多く集まる地区などで、仕事にあぶれてしまった人たちに資金援助する仕事でした。ジーパン、サンダルにノーネクタイで、労働者たちが焚火とかしているところへ行く。朝5時くらいに行って、昼頃には仕事が終わって。その後は同僚とキャッチボールなんかして、酒を飲みに行く。そんな毎日でした。

仕事で会うのは、いわばエリートではない人たち。そういう人たちと接していると、彼らの気持ちがものすごく心に響くのです。本当に共感できました。結局、エリートが嫌いなのですね。

そういう現場の仕事を2年くらいして、総務に移ります。その後、建設労働者の待遇改善をする部署へ異動となって、そこで俳句と出会いました。

(後編につづきます)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?