そもそも、ヨガって ~『本来の自分』に出会う旅の道しるべ
今年1年は、これまでになくヨガをした。年の初めのまだ寒さ厳しいころ、とあるヨガに出会ったのがきっかけだった。
その講師であるヨーガセラピスト 赤木香苗さんから「ヨガは『本来の自分』と出会うためのもの」と聞いたとき、それまでの理解との距離が遠すぎて、正直、なんのことやらよくわからなかった。でも、わからないながら、素敵だことだなと思った。
ヨガは、初めてではなかった。もう何年も前になるけれど、ジムで時々やっていたことがある。ただ当時は、ピラティスとかボクササイズとか、そういうスタジオ・エクササイズの1つ、くらいの感覚だった。記憶に残っているのは、最後のシャバ―サナ(大の字で仰向けになる”屍のポーズ”)で、近くのおじさまがよくイビキをかいて気持ちよさそうに寝ていたことだった。そんなだったから、ヨガの根底に深い哲学が大河のように流れていることなんて、まるで想像もしていなかった。
そして今年、ヨガと出会い直した。「ヨガは『本来の自分』と出会うためのもの」という言葉の意味も、ようやくわかりかけてきた。ここから、そのわかりかけの視点で、赤木香苗さんの「そもそも、ヨガって」についてのお話をまとめてみたいと思います。
※以下、サンスクリットの発音に近い「ヨーガ」で表記します。
ヨーガとは、心の学問
「人類の根本的な悩みは、昔から変わりません。身体をどう健康に保っていくか、と、人間関係をどうしていくか。この2つに尽きます。人間関係には、他者との関係も、自分との関係も含まれます。自分との関係、つまりは『自分とは何者なのか?』という問いですね。すべての宗教や哲学は、ここから生まれていると言ってもいいかもしれません。」
インド哲学もその一つ。そこから生まれて、「心」を取り扱う心理学(Mano sastra:心の学問)がヨーガ。一方、同じインド哲学から生まれて、「身体」を取り扱う生命科学がアーユルヴェーダ(ayurveda)だ。
「ヨーガは、『ヨーガ・スートラ』という経典を基礎としています。この経典のほとんどは心について書いたもので、『ヨーガ』と聞いて多くの人が思い浮かべるポーズ(アーサナ)についての記述は、ほんの一部なんです。」
ヨーガとは、繋がること
ではヨーガは、どのように、心を捉え、そして心が抱える苦しみを救おうとしているのか。
「そもそも、なぜ苦しみは生まれるのか?その理由を、ヨーガでは『Body(身体)と Mind(心)が、Spirit(魂)から分離しているからだ』と考えます。Spirit(魂)というのは、いわば『本来の自分』。そのためヨーガでは、この3つを繋げて1つにしていくことをめざすのです。」
YOGAの語源は、YUJ(ユジュ)。サンスクリット語で、牛や馬などを車につなぐ軛(くびき)のこと。繋げる、結ぶ、コントロールする、といった意味を持つ。
では、この3つを、どのように繋げていくことができるのか。
「経典の中に、こんな言葉があります。
私たちの心(Mind)、いわば感情や思考は、いつもざわざわと波立っています。インドでは『酔っぱらった猿が蛇に噛まれている状態』なんて表現されるのですが、そのくらい暴れまわっているものです。
その心を鎮めることで、私たちは、本来の自分(Spirit)と繋がることができると考えます。心にコントロールされず、心をコントロールすること。それがヨーガがめざすことで、それによって幸せになれると考えられているのです。」
本来の自分は、自由で幸福な存在
心をコントロールし、心を鎮めて、『本来の自分』と繋がる。この『本来の自分』とは、一体何なのか。
「ヨーガでは、2つのもので『自分』が構成されていると考えます。
1つは、プルシャ。下の絵の中心にある「魂」で、本来の自分。「真我」とも言われます。自分の中心にあって、変わらずにそこにあり続けるもの。
もう1つはプラクリティ。魂を取り巻いている5つの物質的な層です。これらは、常に変わり続けていくもの。
5つの層は、外側にいくほど、構成する粒子が粗くなります。一番外側のAnnnamayaは、身体(肉体)という、粒子が粗いために触れることができる、具体的な質感を持ったもの。ひとつ内側のPranamayaは、もう目では見えません。ただ、「気」や「呼吸」など、感じることはできるもの。さらに内側は、より粒子が細かくなります。意志や知性、直感、信念、価値観だったり、そうした『自分』を構成する目に見えない様々なものです。」
一番内側の層、Anandamayaは、プルシャ(本来の自分)と結びついているという。
「これらの層の一番奥に、プルシャ、すなわち『本来の自分』は存在しているのですが、私たちは、周りの層のどこかにぶつかって、それが『本来の自分』だと思い込んでしまうのです。それが苦しみの根源だと考えます。
たとえば、一番外側の身体に痛みがあると、それが制約となって本来の自分が感じにくくなる。あるいは、自分の性格を『自分』と思い込み、「だからダメなんだ」と考えてしまう。自分の価値観は、幼いときに周りから植え付けられたものかもしれません。それも『自分』だと思ってしまう。」
「『本来の自分』は、ただただ自由で幸せな存在。ヨーガではそう考えられています。その存在と繋がることができれば、私たちは自由で幸せになれる。それがヨーガのめざす目的地なのです。」
「本来の自分」に戻る8つの実践
身体と心が、魂とつながり、ひとつの「本来の自分」に戻っていく。ヨーガは、そのための8つの方法(八支則)を伝えている。
この8つを段階的に(①→②→・・→⑦→⑧)実践していくことで、『本来の自分』と繋がることができるという教え。
①Yama/禁戒: 外側の世界との関係性、いわば道徳。非暴力、不盗、誠実、禁欲、不貪の5つ。
②Niyama/自分との向き合い方:清浄(身の回りを整えること)、満足(足るを知り、あるものに感謝すること)、勤勉(自分の中に情熱を燃やし続けること)、自己学習(自己を知ること)、神への帰依(大いなる力に委ねること)、の5つ
③ Aasana/ポーズ:いわゆる多くの人がヨーガと聞いて想像するもの。ダイレクトに心を鎮めることは難しいから、まずは、より質感や実感を伴った「身体」にアプローチする。身体に不快感があると意識はそちらに行ってしまうので、それを取り除く。身体が整えることで、心を整いやすくする。
④ Paranayama/呼吸法:呼吸は心と繋がっている。呼吸が落ち着けば心が落ち着くし、心が落ち着けば呼吸が落ち着く。また呼吸は、身体(特に自律神経)と密接な関係にある。ゆっくり吐くと副交感神経が優位に、早く呼吸をすると交感神経が優位になる。そのため、呼吸は、心と体を繋ぐ「架け橋」となる。
⑤ Pratyahara/感覚の制御:人は、感覚や欲に引っ張られやすい。引っ張られて、魂が求めている方向とは別の方向に進んでしまう。感覚にコントロールされて、魂から離れていく。自分ではそれに気づいていないことが多い。自分が何を感じているかに気づいていない。だからまず、自分が自分の感覚に気づくこと。認識し、コントロールすることで、魂の求める方向に進むことができる。煩悩にも似ているのだろうか。持っていることに気づかなければ、手放すことはできない。
⑥ Dharana/集中 :意識を一点に集中させていく。
⑦ Dhiyana/瞑想:集中が定まってきた状態。
⑧ Samadhi/忘我:さらに集中が深まると、対象と自分を隔てる壁がなくなり、一体化していく。集中の対象が「私」であれば、私と私が統合していく。
彼女のヨーガと瞑想のクラスで行うのは(おそらく世間一般でも)③以降だ。でも実は、その土台となる日常の心がけ(①や②)から、既にヨーガは始まっている。
とはいえ、①や②は決して簡単なことではない。むしろ、簡単ではないからこそ、③から訓練するのかもしれない。③から入って、少しでも⑧に近づこうと鍛錬を積み重ねていくことで、①や②も日常に溶け込みやすくなってくる。きっと①~⑧は、ぐるぐると円環しながら「本来の自分との出会い」に一歩一歩近づいていくのだろう。
ヨーガは一歩一歩
「経典は、『本来の自分』に戻るためのマップや方法を伝えてくれています。とても貴重な教えだけれども、そこで起こっていることは、その人にしかわかりません。そういう意味ではヨーガは、教えることができないものなのです。自分で経験するしか、方法はありません。魂を感じるのも、結局は自分でしかない。だから私は、一人ひとりが『本来の自分』と出会い、幸せで自由になっていく尊い体験に寄り添っていきたいのです。」
そもそも、ヨーガって。
それを知っているのと知らないのとでは、見た目は同じことをしているように見えても、内側では大きな差が生まれるのだと思う。少なくとも、ジムでよくわからず吸って吐いてポーズをとっていた頃の私から考えれば、いまヨーガはずっと深くて面白い。
ヨーガに、答えはない。それはきっと、生きることに答えがないのと同じなのだ。だからこそ、日々、自分に問いつづける。先人が残してくれた地図とコンパスを頼りに、講師を道先案内人にして、一歩一歩、深い森に分け入っていく。魂の息吹が感じられる方向に向かって、前進しているのか後退しているのか分からない日も、一歩一歩。
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