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「ふつう」を蹴っ飛ばす

どうもどうも。こんにちはイマンモです。
くっそ暑いですね今年は。今年は。今年も。
これ、ずーっと続くんでしょうか。もう逃げ場なしじゃないっすか。暑すぎますよ。こないだ浜松行って浜松城を見に行ってきたんですが、城内の暑さで見学どころじゃなかったっすよ。死にますよ。車の中でエンジン切ってガソリン入れてる間だけで熱中症になりそうでしたもん。もうだめだ。資本主義やめましょう。

って、いきなり何書いてんだって話ですが、それは僕が相変わらず忙しいって話です。

いや、浜松に観光行っとるやんけってツッコミは無しで。ほんの僅かな盆休みの楽しみですよ。貧乏暇なしです。
まあ、でも流石に夏休みに入って、ヒルネットがある普段よりは、スケジュールはまし。
な筈だったんですが、なんと今年度は8月下旬にヒルネットでの宿泊お出かけ活動を企画。
誰が企画って? もちろん、突然、僕が。急に7月に思いついて。
ということで自業自得ながら、その準備で精神的にキツイ。何といっても、僕個人は旅行のスケジュールとか立てるのが大嫌い。旅は好きだが、行き当たりばったりにいろんなところに行くのが好き。
ヒルネットの活動も、いっつもそんな感じだしね。

ところが、今回は大人数での民族大移動。ということで、バス貸切の手配をしてみたり。宿と諸々の打ち合わせをしたり。正直、苦手なことをやると人間ってやつはいつも以上に疲弊します。

そうだ、来年度はメンバーの子どもたちに企画準備を進めてもらおう! と固く決心するこの頃。まあ、本来はそもそもそうする予定だった。いつものお出かけ活動と同じくね。ただ、今回は僕が急に思いついたこともあって全てを僕がやるハメに。。。。ま、今回は実験企画ってことで。

そんなわけで、こちらの宿泊企画についても、無事、旅を終えましたら、ヒルネットHPの「活動記録」で報告する所存。


と、いきなりですが、今回のテーマ。(ここまで結構な字数を愚痴で消化)
「ふつう」という感覚。

ちょっとさっき自分のブログの記事を少し読み直してみたんですが、時々、僕が「ヤリダマ」にあげている、このワード。
意外にこのこと自体をテーマにした記事ってねーなーと思ったわけです。
しかし、いわゆる「不登校」にしろ、「発達しょうがい」「学習しょうがい」といったことにしろ、それらが「問題」であると感じられるのは、それらが「ふつう」という感覚から外れているように思われるからでしょう(注:仕方なく使っていますが、これらの言葉自体、僕は好きではありません)。

もちろんASDやADHD、LDなどによって深刻に「生きづらさ」を感じている場合、合理的配慮がなされるべきなのは言うまでもありません。
しかし、一方でそれを「ふつうではない」としてしまうのはどうなのか。その時の「ふつう」という感覚は、何なのか。


日本人は通俗的に、集団性・同調性を好む民族だなどと言われています。「空気を読む」ような同調圧力が強い国だとも。
もちろん、これらはある程度「神話」に過ぎす、欧米社会や他のアジア国家でも一定の同調性は好まれるし、「空気を読む」必要がある場もたくさんあるに違いありません。
しかし、まあ他国と比較できるかは別として、この日本社会において、ある種の同調性が好まれる、異物が排除されやすい、それこそそんな「空気」があるのは事実のように感じます。「出る杭は打たれる」「雉も鳴かずば撃たれまい」なんて言葉もあるもんね。

特に現今の日本の学校社会。その中でも、とりわけ小中学校は、「変わり者」にはキツイ社会です。
なんといっても、これらの学校では「集団行動」を求められることが多い。

いや、「集団」が「共存」するあり方を学ぶ場だ、というのは、別に否定されることではない。
しかし、「集団」=「みんな」と同じように在れ、同じように行動せよ、という形でそれが押し付けられるとすれば。
そこでは容易に「排除」が生まれる。

その排除の過程で見えてくるのが、「ふつう」という感覚です。
「あの娘は小学生で髪を染めてるなんて『ふつう』じゃない」「男子なのに女子みたいに髪伸ばすのは『ふつう』じゃない」「授業中に自分のことばかり話し出すのは『ふつう』じゃない」「学校に週に三日しか来ないなんて『ふつう』じゃない」「突然、怒り出すなんて『ふつう』じゃない」「こんな簡単な問題が解けないなんて『ふつう』じゃない」。

いくらでも例が挙げられる。
ところで、この「『ふつう』じゃない」は、こんなふうにも言い換えられます。「『みんなと同じ』じゃない」。

そう。
「ふつう」というのは、「みんな」が共有している(と思っている)「常識」「感覚」「行動原理」。
そして、小中学校のようなミクロな社会では、上で書いたように、この「みんなと同じ」という同調圧力が働きやすい。
「どうしてあの子が『変』だと思うの?」
「だって『みんな』そう言ってるよー」
てな感じでね。

だけど、その「みんな」とは誰のことなのか?
本当に「みんな」は同じ常識、感覚を共有しているのか?

実のところ、「みんな」なんてものは具体的には存在しません。
古い言い方で言えば、「世間」と同じような、いやまさしく「世間」を言い換えただけの、規範的幻想に過ぎない。
したがって、そこで共有されているような思考も、実は具体的には存在しない。個別的に突き詰めていけば、それぞれの場所、個人で常識も行動原理も異なるはずです。

だから。
学校には行かなくても良い。
学習は自分のペースで行えばいい。
好きな学問だけやったって良い。
腹が立つ時は怒れば良いし自分の好きなことを話せば良い。
髪を真っ赤に染めたって良いし、長髪にしたって良いし、モヒカンにしたって良いさ。

それで誰かが傷つくだろうか? 他者の存在を否定するような行為だろうか。そんなわけ、ない。

だから、「ふつう」じゃなくて、全く問題ない。
「みんなと同じ」じゃなくても、「生きていく」道は実はたくさんある。

本当は、私たち大人は、そういうふうに子どもたちに、いつも既に伝えていくべきなのではないでしょうか。
「ふつうじゃない」ような生き方も賞賛されるべき道であると、折に触れ説いていくべきではないか。
少なくとも、「教育」という名を冠する場所では、そうした姿勢を示していくべきです。

残念ながら、学校を含む日本の教育機関では、そうなっていないところも多いでしょう。
しかし、もしも大人である私たちが、なるべくいつも「ふつう」なんて言葉を蹴っ飛ばすよう心がけたのなら。
「不登校」なんて言葉も、「何とかしょうがい」なんて言葉も、蹴っ飛ばせるようになるんじゃないかなと僕は少し思うのです。

それでは、それでは。

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