岡田監督が起こした、もうひとつの小さな奇跡|はじめてのnote
阪神タイガース岡田監督が2024年シーズンをもって勇退する、というニュースが飛び込んできた。岡田監督は私たちファンに、38年ぶりの阪神日本一という奇跡をもたらしてくれた。と同時に、我が家にも奇跡をもたらしてくれた。世間から見たら小さくてありふれたことかもしれないけれど、私の人生にとっては間違いなく大きな奇跡。岡田監督への感謝を込めて、綴ってみたいと思う。(このためにnoteを立ち上げたという……笑)
※記事中、敬称略
涙の退団会見にハッとした小学3年生
1993年オフシーズン。小学3年生だった私は、テレビの向こうで涙ながらに退団会見を行う岡田彰布を見つめていた。幼き日の私は岡田のそれまでの功績を理解していなかったため、当時もてはやされていた新庄や亀山といった派手な若手の影で“たまに代打で出るベテラン”という認識しかなかったのだが、退団会見の岡田の姿は「ほんまに阪神を愛していたんやな」と強い印象を焼きつけた。
その頃の私は、甲子園まで徒歩10分の場所に引っ越してきた影響で阪神ファンになったばかりだった。引っ越してきたのが、阪神が久しぶりに優勝争いを繰り広げ盛り上がっていた1992年。学校のクラスの9割が阪神ファン、同級生のマンションに阪神の選手が住んでいる……といった特殊環境に身を置いたことによって、親からではなく地域から阪神ファンのDNAが深く刻み込まれた。その後サンテレビが映らない場所に引っ越して、周囲に阪神ファンの仲間もいなくなってからの阪神ファンとしての長い暗黒期も、時にはひとりラジオも聴いて応援し続けていた。
岡田監督がくれた最高の青春
2004年。大学生になった私は、岡田が阪神の監督に就任すると知り心から喜んだ。別球団から来てくれた野村監督、星野監督にももちろん感謝しているが、生え抜きで誰よりも阪神愛に抜きんでいる岡田監督が率いる阪神への応援はこれまで以上に力が入った。大学で念願の阪神ファンの仲間も得た。バイト代をはたいてみんなで甲子園に応援へ行くことはもちろん、安芸のキャンプに遠征したり、一人暮らしの部屋に友人を招いて応援会をしたり……。その甲斐実って(?)翌年の2005年、ついにリーグ優勝。「あの涙が報われたなあ」と勝手に退団会見を思い出しては喜びを噛みしめ、またまたバイト代をはたいて日本シリーズに観戦も行った。(結果、ロッテに惨敗。)御堂筋のリーグ優勝パレードにも、雨の中駆けつけた。「岡田監督~!ありがとう~!」パレードバスの上から手を振り返してくれた、岡田監督のあの白い歯の笑顔、今でも忘れられない。
あの退団会見から30年後、我が家に異変
そして2023年。阪神最後の優勝から18年の月日が経ち、社会人になり、一児の母にもなった私の胸は高鳴っていた。再びの岡田監督の就任。出産前は仕事が忙しくほとんど試合観戦できなかったし、出産後も子育てと仕事との両立にてんてこまいで、ここ何年かは阪神から遠ざかっていた。でも、岡田監督のおかげでまた阪神ファンのDNAが再び私の中で暴れ出した。
サッカーファンの夫とスポーツにまったく興味がない小学3年生の息子に白い目で見られながらも、半ば強引に阪神のテレビ中継をつける日々。すると、阪神の快進撃も相まって、息子が興味を示しはじめた。「プロ野球スピリッツ」というゲームもするようになり、いつの間にか阪神はもちろん、野球のルールも、他球団の選手までも、私より詳しくなっている。驚くほど野球や阪神に夢中になった息子を見て、夫も「甲子園に連れてってあげてもいいんちゃう」。なんとかチケットをとって家族3人で初めて甲子園に行けたのが2023年9月前半だった。そう、阪神が優勝に向けて無敗の連勝をしていた時期。とんでもなく球場は盛り上がっていた。最初はその迫力に面食らっていた息子だったが、周りの阪神ファンとメガホンを合わせて喜びあうたびに、誰よりも大きな声を出して応援するようになっていった。リーグ優勝が決定した後も、クライマックスシリーズ、日本シリーズとチケットに恵まれ(正しくは夫婦で死ぬ気で獲得し)、行く試合はすべて勝利。息子は観戦のたびに初対面の優しい阪神ファンの方々に声をかけてもらったり、グッズやお菓子をもらったり、大声で歌う六甲おろしを褒めてもらえたりして、阪神ファンのことも、観戦も大好きになっていった。夫もいつのまにか阪神のユニフォームを着るようになっていた。そして、奇跡の日本一。その日はテレビ観戦だったが、私より先に息子が泣いていた。1年前まで野球の「や」の字もなかった我が家に、奇跡の光景が繰り広げられていた。
文化系の息子に起きた奇跡
さらに、もうひとつ奇跡が起きた。息子が「自分も野球したい」と言い出したのだ。近代史が好きで、趣味は世界地図で国同士の覇権争いのシミュレーションをすること。その前は、血液の働きを調べることにハマっていて、医療従事者用の専門書まで熟読していた。野球にハマったのも、データを見て考察する要素があるからだと思っていた。自らプレーすることには興味がないと思っていた、その息子が……!
息子が阪神ファンになったことに感動していた私ではあったが、野球少年の母になることは想定していなかった。何しろ、スポーツテストのソフトボール投げはたった8メートル。周囲には1年生から本格的な野球チームに入って猛練習をしている子もいるのに、3年生で初心者で、ソフトボール投げ8メートルで、体育会系の指導なんて受けたこともない息子が今から入れるチームはあるのだろうか……。必死に検討して、民間の野球スクールにたどり着いた。まずは、未就学の子もいる初心者コースから。今までスポーツの習いごとは続いたことがなかったから、いつまで続くかな……と見ていたら、明るく前向きな指導方針のおかげもあって、どんどん夢中になっていった。親元を離れての合宿にも行きたいと自ら申し出る。野球の練習がない日でも、公園へ自主練に出掛けていく。夫も、グローブを買ってあげたり、キャッチボールに付き合ったりしてくれた。そうこうしているうちに、なんとか高学年のコースに入れるまでになった。8メートルだったソフトボール投げも学校のクラスでも上位の25メートルに。「好き」がここまで人を成長させるのか。本当に驚いた。
小学3年生の私と小学3年生の息子をつないだのは、岡田監督
それもこれも、岡田監督のおかげである。小学3年生の私が出会った岡田“選手”の涙からつながり、小学3年生の息子は野球少年になった。私が後天的に得た阪神ファンのDNAを、息子に受け継ぐことにも成功した。仕事から帰宅した夫が自然と阪神のテレビ中継をつけるのが日課になった。これはぜんぶ、思いもよらなかったこと。そう、岡田監督が我が家に起こした奇跡だ。
阪神に38年ぶりの日本一、そして我が家への奇跡をもたらしてくれた岡田監督、本当に本当にありがとう。
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