ワンちゃんを愛でてオキシトシンが出て感謝の気持ちも湧いてくるかも

哺乳類を愛でたい。犬がいい。しかし現在の住環境では無理だ。ペット不可のマンションに住んでおり引っ越す必要がある。無職の私にはそんなお金も権利ない。

思い切り犬を抱きしめたい。撫でたい。ペットと触れ合うとオキシトシンという脳内物質が分泌されるらしい。オキシトシンはスキンシップや感謝したときなどに分泌される物質で愛情ホルモンとも呼ばれている。

二年ほど前のこと。実家に帰るとそれまで飼っていた犬がいなくなっていた。どうしたのかと母に尋ねた。「首輪がばすれてたみたいで一ヶ月ほど前に目を離した隙にいなくなっていた」死期を悟った老犬は自らどこかに消えてしまうことがよくある。だから仕方がないのだとそれほど気にもかけていない様子で母は語った。

百歩譲って死期を悟った犬が姿を隠す事例が往々にあるとしてもだ。可愛がっていたペットがいなくなったら動揺するのが普通ではないか。一般的には必至になって探すだろ。やはりこの人には愛情が無い。またひとつ母がアブノーマルである証拠が集まった。

私は母に抱きしめられた記憶がない。母のおかげでオキシトシンが分泌された経験はそれほどないのだろう。私がオキシトシン不足で育ったのは間違いない。不安をごまかすことはできても安心を感じたことはないからだ。

こう考えてみるとオキシトシンが感謝したときにも分泌されるというのも納得がいく。さっきも書いたように私は母に抱きしめられた記憶はない。それどころか抱きつこうとして汚い言葉で拒否された記憶ならある(何を言われたかは下記のブログをご参照ください)。母からの心理的ネグレクトによって不安と恐怖ばかりの日々しか知らない私に感謝の気持ちなど起こりようがない。

犬を飼いたいと言っているけど私はずっと犬が苦手だった。実家で飼われていた逃げ出した老犬をかわいいと思ったことは一度もない。たまに帰省した私に吠えるだけで近づいてもこない犬だった。臭いし。撫でたこともない。あの両親にしてこの犬ありだと思って憎たらしいばかりだった。

私が犬を苦手になったのは両親のせいだ。私の両親は犬は不潔だから家のなかで飼うものではないと常々言っていた。そんな二人が家の中で犬を飼いはじめたと聞いたときには呆れた。無責任で適当すぎる。

うちの母にもオキシトシンが分泌される瞬間があるのだろうか。何かを愛でたり感謝したりできるのは人の気持ちが理解できるからこそだ。母にそんな感情があるのだろうか。

カウンセラーがいうには私は母と違い人の気持ちが理解できる人間らしい。だからこそ母の虐待によって苦しんでいるのだという。もし私が母と同じように人の気持ちを理解できない人間だったら自分が苦しんでいることさえも気づけなかったかもしれないらしい。

これまでは人を愛そうとする気持ちにストップをかけていたのではないかと思う。母から抱きしめられたかった。でも叶わなかった。だから私は自分で自分を洗脳した。私は誰からも愛されない人間なのだ。そもそも愛されたいなんて思っていない。抱きしめられたくもなければ抱きしめたくもないと。

そんなの本音じゃない。本当は愛されたかったし、愛したかった。抱きしめられたかったし、抱きしめたかった。ここに気づくのに時間がかかった。人として当たり前の感情を押しつぶさなくては生きていけなかった。虐待の傷は深い。苦しい時間が続いた。本音を認めてからは少しずつ洗脳が解けはじめた。

妻の実家に老犬がいる。若いうちに股関節を悪くしたので走れない。長い距離も歩けない。前回までの帰省時は積極的に触れようとはしなかった。ペロペロ舐めてくるのは唾液がついて気持ち悪いし、抜けた毛が服につくもの不潔だし、少し臭かったりすると触るのもためらわれた。

今回の帰省では思い切り撫でさせてもらった。撫でるとじっとそこにいる。撫でるのをやめると舐めてきたり鼻を押し付けてきたりしてもっと撫でろと催促してくる。近くによってくるたびに撫でつづけた。撫でながら寝落ちした。気づいたら犬も横で寝ていた。かわいい。

スキンシップと感謝という私の知らない人生を大いに幸せにしてくれる二つの要素。それによって分泌されるオキシトシン。私はオキシトンを存分に味わってみたい。

世の中の多くの人が知っている愛し合う喜びと抱きしめ合う喜び。あの人が、あの子が、あのワンちゃんがいてくれて良かったという幸せ。そういう幸せを味わってから死にたい。ラブソングが理解できない私の願いだ。

ー 終わり ー

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