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なぜにそれを描いているのか?!〜身体から植物が生える動物〜

本日はなぜ「身体から植物が生えてくる動物」を描いているのか?と言う少し深い部分のお話をしようと思います。

私が文学を書こうと決めた時に、まず最初に書きたいなと思ったのは「自責」を辞めて欲しいと言うメッセージ性を含むものでした。

それを、メッセージと共にAI生成画像のコラージュ作品で
どう表現して行こうか?と考えた時、昔読んだある記事を思い出しました。

それは「体から植物が生える病気」の記事で「ツリーマン(樹木男)」と呼ばれた男性の話です。正式名は疣贅(ゆうぜい)状表皮発育異常症

非常に珍しいこの遺伝性疾患を患ったバングラデシュ人男性の方が痛みに耐えきれず手を切断して欲しいと医者に頼みに行ったというものでした。

その記事を読んだ時に思い出したのが、映画「エレファント・マン」でした。これはプロテウス症候群を患っていた実在した男性を元に描かれた映画です。

内容はかなり重くてホラーを超えているのでオススメはしません笑

ただ、この映画を見た人は、かなり深い自責の念に駆られるんじゃないかなと個人的には思うんです。

この二つは本人の意思とは関係なく患ってしまったもので「偏見の目」で見られるという共通点があります。

偏見の目で見続けられると、当然ながらに人は人の目を避けるようになるし、例え自分が悪くないとしてもそれが自分のせいだと思い、積み重なっていき、自分を責め始める。

それは一般的に言うとコンプレックスとなって住み着いてしまったりする。自分がその気持ちを奥底にひた隠しにして持っていたからこそ、痛いほどに分かるんです。

この「自責」になってしまうプロセスというか考え方の癖というものが、どれだけ厄介か。

自分を責め続け、人を許し続けると自分がなくなってしまう。それは知らぬ間に、気づかないままにそうなっている。

こうなると抜け出すまでに時間がかかってしまう。
なのでその前でストップさせたい。自分を責めず許して欲しいと言うのが、私の伝えたいメッセージとして大前提にあります。

私が自己表現として掲げた「THIS IS ME」の映画もまたここに繋がる。

色んな書物や映画に心救われてきたので、やはり作品にも影響が出るのかなと思います。

こんな経緯がある中で「見た目が違う」「偏見の目・差別」「比較」を「自責」と言うテーマの中にひっくるめて描いていこうと言うところに辿り着きました。

人から責められること、自分を責め続けることで、それは根を張り。
言えない、届かない言葉の数々が傷口から出ていこうと芽を出す。

それはとても綺麗な花を咲かせるかもしれない。
もしかしたら途中で枯れてしまうかもしれない。
どちらにしても花が咲く頃には自分が無くなってしまう。
自分の全てが奪われてしまうのだから。

私はインパクトや衝撃よりも癒しを届けたいので、癒しの最たるものとして浮かんだのが「動物」でした。

こんな思いで、身体から植物が生えてくる動物を描いています。
少しでも何かが伝わったらいいなと思い、今回はなぜこれを描いているのかの説明をさせていただいきました。

作者によっては見る側が感じ取れることを感じて貰えばいいと言う方も多いかと思います。私もそれはそれでいいなと思います。

ただ、作者のもっと奥の方を知りたいなと私は思ったりもするので、語り好きなクリエイティブな狼としては書きたかったわけです笑

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