植松謙太郎

作家・アーティストやってます。会社員もやってます。よしなに。

植松謙太郎

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最近の記事

布施琳太郎さんの手。

先日、布施琳太郎さんの横浜市民ギャラリーでの展示、あなたの中のわたしを観てきた。 この展示を観て感じたのは、彼は紛れもなく日本の現代美術を代表する人物になるだろうという確信と、それに伴う憧憬である。 僕は布施琳太郎さんに以前、White Houseという新宿のアートギャラリーでお会いしている。その際には私は布施さんのことはご存知でなく、無知だったために大学生のアーティストと勘違いして声をかけ、色々と作品のことをお話しした記憶がある。布施さんは無礼な僕にも嫌悪を出さず色々お

    • こんな日でも空は美しい

      皆さんこんばんは。週末はどうお過ごしだったでしょうか。 私は本日、というか日曜日は色々と楽しい日々を過ごしながらも、 過去の自分の行いに振り回された日々でした。 少し疲れましたね。 愚痴らせていただいてもよろしいでしょうか。 まあ。そんなに大それたことじゃないんですよね。 どうも、自分がしてしまったことは色々とついて回るものです。 申し訳ないな、情けないな、と思います。 同時に、日々を過ごすなかでたくさんの人に支えられているなと感じます。 色んな人が私の周りにいて、

      • 暴力・言論・芸術

        表題、4月15日 芸術は尊厳を守るための手段として、暴力・言論に代わる第3の選択肢なのかもしれない。そう考えるようになった。 格闘技を齧っている私は、暴力の強さをよく知っている。流石にジムの仲間がハチャメチャに暴力を振るう、とかはないのだが、暴力が秘めたる自身の要求を通す力なんてものは凄まじいだろう。 そうすると我々が最初に得る力は泣くことなのかもしれない。赤ん坊は泣くことによって親、周囲の人間に要求を伝える。或いは一方的に通す。これは我々人類が初めて手に入れた暴力なの

        • この時代に思うこと。

          4月1日。新年度の開始。 入社式、入学式、色々と街が騒がしい1日だった。 ふと思う。僕らの時代は悲惨らしい。 世界中のジャーナリストが現代国家で戦争は起こらないと信じていたあの日、ロシアはウクライナへの侵攻を開始した。ハマスはエンドステートを定めぬまま、イスラエルへの攻撃を開始した。それぞれの戦争は泥沼化している。日本は太平洋戦争が終結して以後、70年間戦争行為をしていない。 しかしもちろん、自衛隊の兵站活動やPKOは行っているので、全くの0ではない。戦争は人間的な営みで

        布施琳太郎さんの手。

          時間が止まった場所。

          東京には、昭和の名残のある場所が複数ある。 南千住、吉原ソープ街、などなど。 まだまだいっぱいあるでしょう。 南千住に行ったのは、東京の珈琲四天王「カフェ バッハ」に来店するためでした。駅を降りると、大宮とか取手とか、どちらかと言うと地方都市みたいな顔をした街並みがひょこっと現れる。 渋谷や新宿とは違って建物の間と間が開かれていて、ゆったりとした景観がある。遠くにスカイツリーが見えるため、ここが東京であることは疑いようもないのだが、どことなく寂しさを感じる。 バッハに入

          時間が止まった場所。

          ハンチバック:市川沙央をAmazon Audibleで聴いた感想。

          1日で聴き終えてしまった。読了感に近いものはあるものの、私が村上春樹の「海辺のカフカ」を読み終えた時ほどの感傷は少なかったように思う。 ただ、それが作品由来なのか、鑑賞方法由来なのか、それは全く分からない。 視覚で得る情報と聴覚で得る情報には当然だが差異があり、特に決定的なのは記憶に残す時の差異だと感じる。本を読んでいて見逃すことは無いけれど、Audibleを聴いていて聞き逃すことは割と頻繁にある。ここも鑑賞体験の違いが見えてきて、とても面白い。 ただ、ハンチバックで言及

          ハンチバック:市川沙央をAmazon Audibleで聴いた感想。

          言葉から離れるほどに言葉が恐ろしくなっていく。

          誰かのnoteを読むために久々にnoteを開いた。 記事を1つも投稿していない自分のページに嫌気が差した。 卒業制作もやらなきゃいけない時期に、自分の個人的な問題でずっとずっと悩んでいる自分を、愛おしくもなるし、もう一人の自分が「ほら、行くぞ」と肩を掴んで気晴らしに連れていってくれるのを待っている。 伊丹十三の自殺の理由に共感したり、「一人でいるとしんどいので居候させてください」と先輩に連絡して、ちゃっかり家にあったバイオリンやギターを触らせてもらったり、ボクシングを教え

          言葉から離れるほどに言葉が恐ろしくなっていく。