言葉から離れるほどに言葉が恐ろしくなっていく。

誰かのnoteを読むために久々にnoteを開いた。
記事を1つも投稿していない自分のページに嫌気が差した。

卒業制作もやらなきゃいけない時期に、自分の個人的な問題でずっとずっと悩んでいる自分を、愛おしくもなるし、もう一人の自分が「ほら、行くぞ」と肩を掴んで気晴らしに連れていってくれるのを待っている。

伊丹十三の自殺の理由に共感したり、「一人でいるとしんどいので居候させてください」と先輩に連絡して、ちゃっかり家にあったバイオリンやギターを触らせてもらったり、ボクシングを教えてもらったり、親友に連れられて昔ながらの定食屋で心を休めたり、今ままでの自分とは比べようのない荒み方だった。それでも、アートや文化的な教養と切り離れない生活を送れているのは、僕自身の性格と多くの友人のおかげだと思う。

今は、ただただ文章を書くことが楽しい。
noteという文章に特化したメディアで記事を投稿することは、それなりのプレッシャーがあって、僕はずっと尻込みをしていた。作家を夢見て文芸学科に入り、本当に作家がやりたいのだろうか、アートをやり続けていきたいのでは。本を出版したいのではなく、作品を作り続けたいのでは。ジャーナリズムと小説のスタイルはどう違うのだろう。そんなことをひたすらに考えて、気付いたら文章以外の作品活動をしていた。舞台公演の脚本だったり、子供向けイベントのオーガナイザーだったり、文芸学科らしいことは何1つできていなかった。ただ、出版社のアルバイトは続けていた。

出版社という仕事は、人にもよるが文章を書くという行為とはかけ離れた業務内容で、本が好きな人は向いていない気がしている。本が好きな上で、仕事にして、自分の食い扶持にしていく、という覚悟に近いものがなければ、出版社で働くなんてできないのではないか、そう思う。

そんなことを考えていくうちに、言葉からだんだんと距離を取るようになってしまった。

言葉から離れると、言葉を上手く扱える人、言葉を武器にしていく人、言葉に殺されてしまう人、そんな人がよく目に入るようになる。
今まで意識せず、僕の意識から外れていた人々が僕の視界に入ってくるようになる。

言葉から離れるというのは、悪い事ばかりではない。けれど、良い事は少ない。何故ならきっと、自分が見えなくなってしまうから。

今泉京介です。小説、エッセイ、詩、色々と書きます。よしなに。