この時代に思うこと。

4月1日。新年度の開始。
入社式、入学式、色々と街が騒がしい1日だった。

ふと思う。僕らの時代は悲惨らしい。
世界中のジャーナリストが現代国家で戦争は起こらないと信じていたあの日、ロシアはウクライナへの侵攻を開始した。ハマスはエンドステートを定めぬまま、イスラエルへの攻撃を開始した。それぞれの戦争は泥沼化している。日本は太平洋戦争が終結して以後、70年間戦争行為をしていない。

しかしもちろん、自衛隊の兵站活動やPKOは行っているので、全くの0ではない。戦争は人間的な営みである。という本を読んだことがある。きっと、人間がどれだけ進化しても戦争は終わらない。けれど、だからと言って平和を望むのを辞めてしまえば、世界は戦火に包まれてしまうのだろう。

僕らZ世代と呼ばれる1995年以降の世代は年金がもらえないと言われている。それだけでなく、少子高齢化によってこれからの未来が危ぶまれている。現代の政権も僕ら若者をそこまで大事にしているようには感じない。だからと言って、20代30代全員が選挙に行っても高齢者全員が与党に入れれば政権は変わらない。民主主義と名のついた多数決では、こういった側面がある。

かと言って、僕らが声を上げるのをやめれば、それは政治家に首輪をかけられていることと変わらない。

僕は夏頃に大好きな人との別れを経験した。それ以降、会ってすらいない。だからと言って、自分を大切に扱うことを辞めたりしない。心のどこかではまた会いたいと考えている。だからと言って、会えないからと僕の幸せがなくなるわけではない。

苦しいからと言って、幸せであることを、笑って日々を過ごすことを辞めたら、僕らは人としての尊厳を失ってしまうだろう。本来、人間はもっともっと自由であるべきだ。国家とか経済とか、そういったものに縛られて生きている間は、僕らは自由になれないのかもしれない。

かと言って、僕らが理想を捨ててしまえば、この世に生を受けたことを後悔してしまえば、今を自堕落に生きている人々の一人勝ちになってしまう。僕らはたとえ幸福でなくても、笑って生きていくことを良しとされている。

幸せでなくたっていいじゃないか、生きているんだから。

この世界にはつらいことだって多すぎる。だからと言って、僕らは生きることをやめない。死ぬのはつまらないから。

どうしたって僕らの未来は暗いんだ。でも、だからと言って希望を持つのを辞める訳にはいかない。

政治とか、戦争とか、経済とか、恋愛とか、仕事とか、人生とか、そんなものに名前をつけた人々の描いた生活に、個々人の生活の景色は考慮なんてされていない。

僕らは日々飲むコーヒー1杯1杯に名前をつけたりなんてしない。

僕らは生まれる時に親から名前を授かった。

それはきっと、自分だけの景色をつくることを願われているのだろう。
親と仲が良くても、良くなくても、それは人が後世の人々に願っていることだ。

人が嫌いと言っている人がいた。
じゃああなたは何故、赤ん坊が抱かれている様を見て笑っていたんですか。

僕らは日々を生きることよりも、赤ん坊が笑っていることを願わずにはいられない。

今泉京介です。小説、エッセイ、詩、色々と書きます。よしなに。