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【掌編小説】パイナップルピザと肺呼吸

ピザにパイナップルを乗せるのは是か非かという議論がある。俺はどうでもいいが、母はパイナップルが乗っているピザの存在すら知らなかった。つまり問題を知らなければ議論を必要としないのだ。

母はこういうことがよくあった。政治の不正、汚職のニュースを俺が母に振るとお金や名誉を欲しくてやったんでしょ?彼らにとってそれがやりたいことなら、やらせてあげればいいと言った。最初それを聞いたときニヒリズムのように聞こえたが、母は本心でそう思っていた。振り返れば俺は小さいころから母に何かを咎められることはなかった。かわりに父がものすごく厳格な人間であった。今でもこの2人が結婚したことが謎である。

今思い返すと、その考えに合点がいく。俺は友人がくそつまらない小説や映画を好んでいるのを腹立たしく思っていた時期があった。俺は機会がある度、「高尚な」小説や映画を勧めた。だが友人の反応は振るわず、俺は友人を見下すようになる。
ある日、友人宅で家飲みしていた時に酔いが回った頭でそいつのしょうもない本が並んだ本棚を眺めた。友人は缶ビールを片手にしょうもないバラエティ番組を見ながら笑っている。俺はなぜか体の奥底から熱い優しさのようなものがこみあげてきて、とても幸せな気持ちになった。

「ああこれでいいんだ」

なかなか言いにくい表現だが、友人に対して深い愛情を感じてしまった。その日から俺は友人と会おうとしなかった。結果的に縁を切ることになった。

この出来事は1つの切っ掛けだった。この感覚は体の片隅に記憶保存されていて、俺は何度もこれについて問いかけた。そのせいか、色々と誤解を受けやすい人間になってしまった。または人を苛立たせてしまうことも度々あった。

俺はふと口にした。
「結局、俺は全てのものを見下している嫌な人間なのかもな」
女は言った。
「いまさらわかったの?」
「俺は俺を含めて見下しているかもしれない」
女はベッドから起き上がり冷蔵庫から缶ビールを取り、言うべき事を言わないために一口飲んだ。
俺は天井を轢かれた猫を見るかのように見た。
胸がヒヤリとした。
女は缶ビールを俺の胸に置いている。
「ねぇ、馬鹿なくせに全部知っているような顔をしてる」
女の顔が目の前にある。年老いていく女の顔があった。
俺は目を閉じる。
女は俺の鼻をつまみ、口を塞ぐ。
「どれくらい耐えられる?」
分からなかった。ただずっと耐えていく人生だろうなと確信していた。

酒は飲まなくなった。ランニングを始めるようになってからだ。

昔、占い師に見てもらったことがある。
「あんた長生きするよ」と言われた。
俺はがっかりした。

高校の頃、部活で鬼のように坂道ダッシュをさせられた事を思い出した。俺は無性にやりたい気持ちになった。肺と心臓をイジメぬきたかった。遠くの運動公園にいい傾斜の坂があった。俺は狂ったかのように走った。夜だった。芝生の上に倒れ込み、苦しさと痛みに身をゆだねた。部活の顧問の指導を思い出す。現在ではそのほとんどが間違っているか、効果を過大評価していると言われている。この坂道ダッシュだけが例外的に正しかった。あいつは今頃なにを教えているのだろうか?俺の心臓は俺の体から抜け出したいかのように激しく跳ね、足は石像のように股にくっついている。晴れた夜空の半月が俺の顔を覗いていた。俺は声を絞り出した。
「くそったれ」
情けない声が耳にへばりついた。
「もう限界だ」
木々が葉をこすり合わせる音が聞こえる。風が汗ばんだ体を通り過ぎていく。深く呼吸をした。鼻から喉に、喉から肺へ。肺の隅々まで空気を満たす。そして吐出す。何回も繰り返していると、自分がこの世界のポンプでしかないように思えた。それも悪くないなと思った。

帰りに車でラジオを聴いて休んでいると、多くの人間が死んでいた。戦争、犯罪、自殺。俺はこの世界のポンプとして聴いていた。それらの悲しいニュースが映画のセリフかのように聞こえた。フロントガラスに虫が這い回る。街灯が青白く駐車場を照らしている。俺の体の中でまたあの感情が湧いてきた。俺はこの世界のポンプとしてこの世界を愛していることに気付いた。それはとてもしっくりした感覚だった。優しい温かみのある液体が全身を満たしていった。

以来、俺は世の中の不正や犯罪、悲劇にポンプの視点から見るようになってしまった。俺は自分が怖くなった。人間ではなくなってしまうような恐怖があった。人殺しでさえ、その人にとってそれが大事であり、やりたいことであったなら許してしまう自分がいて、いや許す、許さないではなく、もっと何だろうか包み込んでしまうような神の視点というよりかは、もっと映画監督の視点とも言うべきかとにかく普通の視点を持てなくなってしまった。すべてがフィクションに見えてしまい、そしてそれが真実でもあると思えて仕方がない。被害者に対しても可哀そうと思う感情が欠落している。あらゆる悲劇に対してそれはあなたたちにとって必要なことであり、望んだ結果と思えて仕方がなく、それは幸福への道とさえ見えてしまい、とにかく自分がぶっ飛んだ人間になってしまった事を自覚すると俺は震えた。どこまでも飛んでいく風船のように自分自身がどこに行くかわからない不安。とにかく上へ上へと意識が昇って行く。俺はいつまで人間でいられるのだろうか。同時にこのままぶっ飛んでしまったら、俺の思考、意識はどのように変化するのかという興味もある。

俺は母がどうやって平穏な暮らしを、専業主婦としての生活を過ごしてきたのか不可解であった。母は既に亡くなりアドバイスをもらうことは出来ない。今の自分はちょっと足を踏み外せば精神病院送りになりそうな危うさが常に分身のように付きまとっている。

影。そうだ、影を俺だと勘違いしていたんだ。そう悟ると、影はビクッとして身を潜めた。

詩を書こうとした。パソコンの前に座りタイプしようとすると一文字も打てなかった。キーを押そうとすると恐怖感が胸の奥からどっと押し寄せてき、厚い透明な膜がキーに覆いかぶさっていた。言葉は残酷だった。

パイナップルについて書こうとしても、パイナップルピザを書いてしまう。俺はまだ、何かから逃げているのだろうか?


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