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しあわせはつかめない。しあわせになる方法はない。

「しあわせ」
って言葉のこと
ずーっと昔から考えてる。何度も何度も。
高校生の頃バンドで
しあわせがテーマの曲も作ったもん。
(「みんないつか消えてしまうのさ、あーあー、しあわせー」っていうサビの歌詞の名曲。ちなみに曲名は『見えない』っていう迷曲)

考えて考えて
やっと少しだけ、
しあわせってのが何か
輪郭がつかめた。(自分なりの)

何をしたらしあわせになれるのか。

お金持ちになる?すきな車買う?家族?
超大物ミュージシャン?
モテモテとか?
超偉大なこと成し遂げるとか?

んー、

ずーっと考えてきたけど
全部正解みたいで不正解だったんだよね。

しあわせにはなれないんだよ。
しあわせの状態は続けられないの。

「しあわせは点」だったみたいだから。
わかりやすく言うと瞬間?
いっときだけの点。

しあわせは点でしかなくて
しあわせは瞬間でしかない。

しあわせは
“なる”
ものじゃなくて
“ある”(時々)
ものなんだと思う。

常にあるものじゃなくて
全然ないものでもない。

何度もあるけど
常にはない。

そういう意味では、本当しょっちゅう
何度もしあわせを経験してる、俺。


具体的に言うと

『超ビッグなことを成し遂げて
お金も稼いで、達成感も得て、美女とも付き合っていて、めっちゃいいホテル泊まってる』

ってのがしあわせなんじゃなくて

『超ビッグなこと成し遂げて、
めちゃくちゃ最強の美女と初めてキスをした“瞬間”』
とか
『ラスベガスの超VIPなホテルの
スイートルームに入って夜景を見た“瞬間”』
とか
そういう一瞬だけが
しあわせなんだと思う。

美女とキスして1時間くらい経って
「あー、しあわせーー」
とか思わないと思う。(自分の場合)
「あー、お腹すいた〜」
とか
「本読みたいなあ」
とか、そういうこと思うと思う。

超VIPなスイートルームに入って
しばらくくつろいだら
俺、外に出かけたくなると思う。

しあわせは一瞬しか味わえない。

しあわせは点だから
何回も得られるし
何回も失くせる。

さっき超しあわせだったけど
今は、ふつうとか。

今は、悲しいとか。

しあわせは点だから中々掴んだままでは
いられないのよね。

だからこそ、
しあわせの点を感じたときは
しっかりと噛みしめたい。
噛みしめるべき!
その瞬間を、その今を。

そして、過ぎたあとも
余韻に浸りたい。
できる限り何度も、長く。

けど、なくなった時に
追いかけようと追及しすぎず
また来てね〜
くらいの気持ちでいた方がなんかいい感じ。

余裕がある感じがする。


そう考えると

「どうやったらしあわせになれるか?」
とか
「将来何になりたい?」
とか

考えすぎるのって
ちょっとだけ
とんちんかんな気がする。
(極端な仮説かもしれない)

いや、俺自身も何度も考えてきたし
しっかりと考えている人は
素晴らしいと思うしかっこいいと思う。

でもきっとちょっと時々
疲れちゃうと思う。
俺は、疲れた、すんごい。疲れた。

掴み続けていられない点のことを
そして
割と日常的に何度も掴めている点のことを
考え続けるのは
しんどい気がする。

だから一切考えるのを辞めた。
(またそのうち考え出すかもしれないけど。)

何も考えなくても
しあわせの瞬間ってあるからさ。

生きていれば。
生きていれば。


俺は今日の朝ごはんに
フレンチトーストをクロワッサンで作ってみて
それが想像を絶する美味しさでさ

最初の3口目くらいまで超しあわせだった!!

でも、そのあと4口目くらいから
飽きてきたし、なんかチーズとか
他のトッピングが欲しくなってた。

欲求や欲望を達して
一瞬しあわせを感じて
そのあと
また新たな欲望
もしくは
退屈が待ってるんだなあと。

今思い出したけど
ドイツの哲学者の
ショーペンハウアーがそんなこと言ってた気がする。
振り子運動に例えて。
哲学者ってすげえ。

けど、体感として自分の心で理解した
自分もすごいよ、褒めちゃう。すごい!


ここからさらに
俺だけの極論おとぎ話を進めるね。
(共感してくれる人がいたら、もうしあわせ。)

たとえばのはなし。おとぎ話。

俺が今日の朝
クロワッサン食べて感じた
しあわせの度合い(数値化できるとしたら)

5億円いきなり手に入れたときの
しあわせの度合いは

同じ度合いなんだと思う。

クロワッサンのしあわせ指数
100だとしたら
5億円のしあわせ指数も
100なんだよね。

だから、俺は
5億円が手に入らなくてもしあわせ。


しあわせの瞬間は
めちゃくちゃいろんなところにあるし、

点の大きさ違いそうに見えて
意外と大体一緒なんよ。

耳を澄まして、目を澄まして
腹式呼吸めっちゃしたら
いろんなときにしあわせの瞬間
感じられると思う。
(ヨガとか瞑想とかするとわかった気になれる。)(思い込みしあわせ法)

そうすると、
執着っていう
しんどいこだわりから抜けられると
思うんだよね。
(なんか仏教チック?)

執着が強いと
叶えられないときに
悲しみや苦痛が長くなると思うんだよね。

たとえば

絶対に結婚して子どもほしい!!
って
それこそがしあわせだ!
って思い過ぎると

結婚できなかったとき
子どもができなかったとき

悲しみや苦しみが大きくなりそうな気がするんだよね。

だから、そこに執着し過ぎずに
クロワッサン食べたらいいんだと思う。

他にもめーーーっちゃくちゃ
いろんなところにしあわせの点って
ゴロゴロ転がってるから。

執着のしすぎは悲しみにつながる。

でも、そんな悲しみも実は点なんだよね。

また、例え話するけどね
(例え話だいすき。)

今日、恋人とディズニーランドに行く予定だったとするでしょ。
前日からいろいろ準備してたのに
当日になってどしゃ降りの雨が降ったとして。

あー、今日は行けないねって。

悲しくなるでしょう?

でもね、

だったら、
お家でポップコーン作って
ディズニー映画見て
のんびりくつろいで
2人でおうちディズニーしたら
超しあわせだと思うんだよね。
(もちろんそれも瞬間だけだけど。)

そういう風に

俯瞰で見てあげたら

いろんなところにある
隠れしあわせ(隠れミッキー的な)を見つけられるんだと思う。

そしたらほらね
悲しみもなくなってると思う。

なんなら、雨が降ってくれたおかげで
のんびりデートができたね。
って。

雨に感謝すると思う。

で、ディズニー行ってたらかかるはずだったお金で
めっちゃ良いお肉とかお酒とかスーパーで買っちゃって
パーティーするでしょ、夜は。
まじ超しあわせ。

一生ディズニーランド行かなくてもいいかも。

ディズニーランド行ったていで
その分のお金をお肉にまわすっていう
パーティー毎月したいもん。


話広がりすぎたけど

悲しみも点であって、瞬間だから
すぐにいなくなるってこと。

悲しみもしあわせも点なんだね。

てか、全部、点だし、全部瞬間。

だからさ、いつも俯瞰でいい感じに眺めるだけにしておいて

あんまり点を追いかけないほうが
いい感じだなあって。

しあわせはいつもすぐそばにあって
いつもすぐどこかに行ってしまって
ふわふわしたものみたい。

かなりぐるぐると思考がまわり過ぎたから
ここら辺にしておく。

また、考えが更新されたら
書こうと思う。

しあわせはなるんじゃなくて、あるもの。
つかむんじゃなくて、感じるもの。


しあわせを敏感に感じて
悲しみに鈍感になってしまった人の

おとぎ話でした。


今日もみんながしあわせに気付けますように。

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