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「感情資本主義」 (ハン・ビョンチョル)

ミシェル・フーコーの「生政治〔bio-politics〕」にちなんで、新しい社会的構造である「精神政治〔psycho-politics〕」を詳解する韓国系ドイツ人哲学者のハン・ビョンチョル。以下で試訳されているのは著作 «Psychopolitics: Neoliberalism and New Technologies of Power»(2017)に収録されているもので、原題は«Emotional Capitalism»。ネオリベラリズムを解析する著者のまたもや清々しいテキストなので、個人的な好みで訳してみました。
著者:ハン・ビョンチョル/試訳:@imaginary_karte

今日、感情を刺激する話題は溢れんばかりだ。たくさんの学問は、感情について研究している。人間はいきなり、「理性的な動物」ではなくなり、その代わりに、センチメンタルな生き物になった。しかし、感情へのこの突然の興味関心はどこから来たのかを問おうとする人はほとんどいない。科学における感情の研究者たちは自身の活動においてそれを探究しようとしていないことは明らかである。したがって、彼らはこの感情の「ブーム」が何よりも経済的なプロセスから由来することを言明できずにいる。さらに最悪なことに、さまざまな概念が混同されている。いろんな研究者にとって、「感情〔emotion〕」、「感覚〔feeling〕」と「情動〔affect〕」は互換できるものなっているようだ。

しかし感覚と感情は同じものではない。たとえば、私たちが言語に関する感覚、運動に関する感覚、他人に対する感覚を口にする時に――「言語感覚〔Sprachgefühl〕」、「ボールに対するバランス感覚〔Ballgefühl〕」、「共感〔Mitgefühl〕」などの言葉を使う。人は「言語に対する感覚」や「他人に対する感覚」を持つことがありえても、「言語に対する感情」や「共−感情」を経験することはないだろう。「言語的情動」や「共−情動」なども存在しない。悲痛も、感覚の一つである。私たちは「悲痛の情動」や「悲痛の感情」などを言わない。情動〔affect〕と感情〔emotion〕は厳密には主観的なものを意味するが、感覚〔feeling〕は客観的なものを指す

感覚は、詳しく描写することができる。なぜなら感覚は、語りの幅と奥行きを持っているからだ。しかし情動と感情は、どれも論理を認めない。現代の劇場で見られる感覚の危機は、「論理的説明」の危機を表している。今日、感覚の語りの劇場は、騒がしい「情動の劇場」と化している。なぜなら、語りは不在となり、情動の塊がステージに上がっている。感覚と対照的に、情動は奥行きをもたない。情動はみずからを吐き出すために、みずからを下ろすために、直線的道を進む。デジタルメディアも、情動のメディアである。デジタルにおけるコミュニケーションは、情動の「瞬時」の吐き出しをうながす――カタルシスである。その瞬時性にもとづき、デジタルコミュニケーションは感覚を伝達するよりも情動を伝播する。炎上は、情動の流れであり、デジタルコミュニケーションの典型的な現象だ。

感覚は、陳述的なものである。たとえば、「私は〜に関する感覚を持っている」と言えるのだが、反対に「私は〜に関する情動(もしくは感情)を持っている」とは言えない。感情は、陳述的なものではなく、行動的なものである。それが、活動や行動につながる。その上、感情は意図と目的を持っている。一方で感覚は、意図的な構造はない。「不安」という感覚はしばしば具体的な対象物を持たない。それこそが意図的な構造を持つ「恐怖」と区別されるところである。また、言語への感覚も、意図的なものではない。その無意図性は、「言語的表現」と見分けるところだ。なぜならそれは「表現(ex-press)=外へと押し出す」ことであり、「感情を訴える(e-motive)=外へと動かす」ことである。宇宙の調和の感覚――世界における包括的な感覚――つまり、具体的な何かもしくは誰かを意識しないことは、可能なことである。その特徴的な感覚の次元に、感情も情動もたどり着けない。感情と情動は、主体性の表現である。

感覚はさらに、感情とは異なった瞬時性を持っている。感覚は、持続を認める。感情は明らかに感覚よりもさらに瞬時的で短命なのである。同様に、情動もまた一つの瞬間に限られている。感覚と対照的に、感情は一つの状態を表さない。感情は立ち止まったりしない。「穏やかの感情」は存在しない。「穏やかな感覚」なら理解できる。反対に、「感情の状態」という表現は矛盾の輪にはまっている。感情は活動的で、状況的で、そして行動的である。感情資本主義はまさにこれらの性質を搾取するそれと比べ、感覚が容易には搾取されないのは、それが行動性を持たないからである。そして最後に、情動は噴出するほど行動的なものではない。情動は、行動的な方向性を欠けているのだ。

雰囲気――もしくはムード――感覚とも感情とも異なるもの。それらは、感覚よりもさらに多くの客観性を持っている。一つの空間があれば、作られた雰囲気を客観的にとどめることができる。雰囲気とムードは、それ自身がそういうものであることを表現する。それと比べて、感情はそれ自身がそういうものであることからの逸脱に由来する。たとえば、ある場所が友好的な雰囲気を醸し出しているとする。そのような雰囲気は完全に客観的なものであるが、友好的な感情や友好的な情動は存在しない。雰囲気・ムードは意図的なものでも行動的なものでもない。それは自分を探し出すためのものである。それは、存在の状態、もしくは精神の状態である。雰囲気は静止的なもので、位置的なものである――一方で感情は活動的で行動的なものなのだ。このような性質が状態を区別する。対照的に、「どこへ」――一つの方向性は――感情を定義する。逆に感覚は、「なぜ」のものである。

エヴァ・イルーズ(Eva Illouz)は『冷たい親密性――感情資本主義の成り立ち』において、資本主義の状況下でなぜ感覚はブームになっているのかという質問に、具体的な答えを出していない。その上、この本は感覚と感情において、いかなる概念的な区別もしなかったし、資本主義がその始まりの段階において感覚の問題を位置付けすることにも役立たない。《ウェーバーのプロテスタントの倫理学は根本的に経済的な活動においての感情の役割について主張している。なぜならそれは資本家や起業家の狂気の活動の中心にある不思議な神性によって引き起こされた不安だからである》。感情の観点から不安を理解するのは間違いである。不安は、感覚だ。結果として引き起こされた瞬時性は、情動とは相容れないことを証明する。情動は、絶え間なくつづく状態ではない。かくして、感覚を定義づける持続性を欠けている。それは、狂気の起業家的行動を引き起こすような不安の持続的な「感覚」である。しかしウェーバーが分析しているのは、感情的な論理よりも、理性的な論理に従う蓄積の禁欲的資本主義である。そのため、この種の資本主義は、消費者の感情から利益を得るような消費型資本主義には含まれない。その上、消費型資本主義は、意味と感情の売買と消費を通じて回るのだ。これは使用価値ではなく、消費経済の中で本質的な役割を果たす感情的で崇拝的な価値である。同じようにイルーズは、資本主義が非物質的な生産に移行した時だけ感情は価値を持ち始めるということを説明できていない。感情が生産手段の一つになるのは、私たちの時代においてのみである

イルーズはまた、デュルケームの社会学の核心である「連帯」は「感情の束」を表していると主張する。その「感情の束」は、社会的行為者を彼らが居住する社会の中心にある象徴物に縛りつける。彼女はこのように宣言する――《彼らに知られずに、現代化における正統的な社会学的説明は、感情のれっきとした理論でなくても、少なくともそれとの多くの関連を含んでいる。不安、愛、競争力、無関心、罪悪感は、現代に至る分裂における多くの歴史的で社会学的な説明のなかで現われる》。

感情のさまざまな社会学的理論へのすべての関連性は、今日の感情のブームをまったく説明できていない。これは、イルーズが、感覚、感情と情動の区別を放棄したことに責任がある。結局、「無関心」と「罪悪感」は情動でもなければ感情でもない。罪悪感は感覚としてしか意味を成しえない。

イルーズは、私たちの時代におけるこの感情のブームは根源的にネオリベラリズムに由来することを指摘できなかった。ネオリベラルな体制は、生産性と成果を高めるために、感情を資源として利用する。生産において一定のレベルから始まり、合理性は――規律社会の媒介としての合理性は――限界を迎える。以降、それは束縛となり、制御となる。突然、それが頑固で、融通の効かないものとなった。この点において、自由の感覚を伴う「感情性」が代わりに登場する。結局、自由になるというのは、感情を好きなようにさせるということだ。感情資本主義は、自由を頼りにし、とめどのない主体性の表現としての感情を歓迎する。ネオリベラリズムにおける権力の技術は、その同様の主体性を無慈悲に搾取する。

合理性は、客観性、普遍性と不変によって定義される。かくして合理性は、主体的で、状況的で、かつ移ろいやすい感情性の対極にある。状況が変われば、何よりも感情が先に浮かび上がってくる――そして認識は切り替わる。合理性は、持続性、一貫性と規則性をもたらし、安定性のある状態を好む。生産性を高めるためにますます連続性を解体し、次第に不安定を抱え始めるネオリベラリズム経済は、この先にある生産的過程の感情化を促す。加速されたコミュニケーションもその感情化に手を貸す。合理性は、感情性と比べると遅く、まるで速度を持たないようだ。そのためこの加速の圧力は、今、感情の独裁を招いている。

消費型の資本主義は、欲望と需要を煽るために感情をもとめる。感情的な設計は、消費を最大化するために、感情を練り上げ、そのパターンを形作る。前者は終焉なしには消費されないが、後者はそれが可能である。諸感情は、使用価値の範囲を超えた次元を前提とする。その際、それらの感情は、新たなる、限界を知らない消費の域を開く

規律社会において「機能」を求められるところに、諸感情においては騒乱がそれに当てはまる。したがって、私たちがなすあらゆる努力はそれらを排除することである。規律社会における「一致協力の整形」は、輪郭のないたくさんの生地を、感覚のない機械に放り込もうとすることである。その機械は、あらゆる感情と感覚が麻痺したときに最も機能する。

今日の感情のブームは、コミュニケーションを交わすことが、今までにない重要な役割を果たす新たな非物質的な生産様式に由来する。その生産様式は、認知的な能力だけではなく、感情的な能力も必要とする。このような状況において、個人はまさにその生産過程に配置されている。ダイムラー・クライスラーはこのように公式に宣言した。従業員の「行動と社会的・感情的スキルが仕事の評価においてますます重要な役割を果たすようになるにつれ…それは…達成された目標と成果のクォリティに基づいて評価される…」。今、社会性やコミュニケーション、さらに個人的な行為さえも搾取されている。諸感情は、一体化したコミュニケーションを最適化する「そのままの素材」を提供する。ヒューレット・パッカードが述べたように――「HPという会社は、コミュニケーションの精神、相互関係性の強い精神を吐息できる場所、人々が会話できる場所、他人へ向かうことのできる場所です。これは、愛情深いつながりです」。

企業の経営層において、パラダイムシフトが起きている。感情は、ますます重要性が認められるようになっている。合理的経営は、情感的経営に取って代わられている。経営者たちは今、合理的行動の信念を捨てている。彼らはますます、モチベーションコーチに似てきた。モチベーションは、感情とつながっている。ポジティブな感情は、モチベーションを成長させる養分を提供してくれる。

この先にある確かな行動を呼び起こす限り、感情は行動的である。感情は元来、エネルギッシュで――五感的で、官能的でさえある――根拠を、行動に提供する。感情は、衝動が植え付けられている大脳辺縁系に操られ、完全な認識を逃すような行為の前反省的、半意識的、身体本能的な領域を作り上げる。ネオリベラル的な精神政治〔サイコポリティックス〕は、このような前反省的な領域において行為に影響を与えるために感情を取り入れる。感情を通じて、深く内側にあるものを切り出し、手を加える。このようにして、感情は精神政治的に人を操るための効率的な媒介として存在できるのである。

[了]

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