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純粋写真批判

 まず、目をつかうこと。それから想像したり考えたりすること。そしてそれらは言葉にすることによって認識することができるということ。
 たとえば写真をみるとき、本を読むとき、そこから何を感じ取り何を思うのか。所謂「感想」というものは言葉を使わなければそれを表現することはできない。

 文章の場合は「文字」という言語を形象化したものを直接的に認識するため、そこに記されているものが何なのかを読み取りやすい。

 では写真やその他の視覚芸術はどうだろうか。そこには何が写っているか、どんなことが描かれているか、それを考える時に使うものは紛れもなく言葉だ。考えることは“言葉をする”ということなのだ。人は感想をもつことや批判することも言葉を使わなければどうすることもできない。

 写真を見て「よかった」。いったい何がよかったのか。ときめく表現を体験をして「ヤバかった」。そのヤバかったとはいったい何がヤバかったのか。
 さて、その「よかった」「ヤバかった」と発語したのは誰か。他の誰でもない、この“わたし”なのだ。発語したものの正体を突き止めなければ「よかった」「ヤバかった」はたちまちにその意味は消失してしまう。

写真専門学校時代の学びをふまえて

 写真の勉強をしたくて航空自衛隊を退官した後、わたしが2009年〜2011年に在籍してた東京綜合写真専門学校では、著名な写真家や写真評論家の方々からの指導で「写真で生きるための知識、技術、哲学・教養」を学ぶことができた。それは実に根拠的で実践的な授業だったと今でも思うし、在学できたことに感謝している。
 写真史や映画評論、スタジオ実習や暗室実習といった授業では写真に関する知識や技能を身につけることができたが、なかでももっとも有意義だったのが合評という授業だった。その合評というのは、生徒が撮影してきた写真を生徒たち自身で批評するというものだった。もちろん、先生も立ち会ってその場にいる全員で全員の写真を見て質問や意見をし、批評しあうのだ。
「なぜこれを撮ったのか」「どうしてこういうふうに撮ったのか」「ここに写っているものはなんなのか」「この写真はどこが良いのか」
 撮影者が何を意図してそれを写真にしたか。その写真を見て自分はどう印象を持ったか。それらを深く観察し探究していくことこそが「写真を見る力を養う」ということだった。自分の写真も他人の写真も、より客観的に、よりフラットに捉えることができた。
 そこでもっとも重要なことは、言葉にしなければ表現はなにも伝わらないと言うことだった。言葉にすることによって、自分の写真ははじめて自分のものになる。言葉にすることによって、鑑賞した写真をはじめて理解することができる。
 そして大切なのはモノローグではなくダイアローグであることだ。

すべてはロゴスに帰結する

 写真だけでなく、音楽や絵画やインスタレーションといった空間アートも、すべては言葉によって作られている。何が良いのか、どうして面白いのか、感覚的に伝わってきたものでもそれを理解するには言葉を使い、表現し、また言葉でしまい込む。
 写真をみて「ヤバッ」とだけ言って終わるのではなく、自分の写真ばかりに目が眩むのではなく、それを言語化していくことから表現はじまる。
 まずは言葉をよく咀嚼し吟味してから舌に乗せることが大切だ。


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