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エビデンスは嫌い、でも形而上学や蓋然性や形相や質料も嫌い

エビデンスが嫌いである。と書くのはまさに「釣り(phishing)」であって、より正確に書くと、「エビデンス」というカタカナ5文字の表現が嫌いなのである。

なぜなら、英語をカタカナで表したりせずとも「証拠」と書けば済むからだ。そっちの方が誰でもわかるし、文字数も音読しても短い。不用意な外来語は避け、できるだけ短い言葉で書くように訓練された身には、ごく自然な選択である。

ところが最近では、公的な文書から新聞や雑誌に至るまで「エビデンス」だらけだ。

もちろんエビデンスは大事だし、自分も何か書く際にはできる限り調べる。でも、それをエビデンスと呼ぶには抵抗がある。この単語に接するたびに、もっとわかりやすく言い換えた方がいいんじゃないかと思ってしまうのである$${^{*1}}$$。

*1 実際、今読んでいる『エビデンスを嫌う人たち』という本で試しに検索してみると、本文には一切「エビデンス」は出てこないのである。わかっていらっしゃる。

昔からずっとそうだった。社会に出たての頃は、技術系の媒体に属したこともあって、意味不明のカタカナ用語の襲来に悩まされた。まず頭に浮かぶのが「スペック」。聞くに聞けず、悩みに悩んで、ようやく分かって驚いた。何だ「仕様」のことじゃないか。

だからデスクをしていた頃には、記者の言葉をずいぶん書き直したものである。「アプリケーション」とあれば、即座に二重線で消して「用途」と書き殴る。今思えば原理主義的で、我ながら少し怖い。

この歳になって、ようやく何でも日本語にしない方がいいんじゃないかと思えるようになってきた。いや、不用意な日本語はかえって使わない方がいいんじゃないかと。

つい先日も、ある書き込みに「蓋然性」とあって首を捻った。あれ、この使い方であってるのか。

そんな時、自分は英語に置き換えてみる。辞書を引くと「probability」。そう、「確率」と同じなのである。これでどうにか分かった気になる。

同じような単語に「形而上学」がある。ずっと昔から何となく知ってるつもりで、それでも意味を説明しろと言われたら詰まる言葉だ。これも英語にすると「metaphysics」。あえて日本語にすれば「超物理」。正しいかどうかはさておき、こっちの方がずっとわかりやすい。

metaプラスphysicsって組み合わせを初めて見たとき、自分はようやく腑に落ちた気がした。ああ、そういうことだったのか。ついでに調べてみたら、「形相」は「form」、「質料」は「matter」。まさにEureka!である。

流暢に喋れるわけでもない英語の方が、日本語よりわかりやすいのはどうしてか。これはもう、馴染みのある言葉で表しているからに尽きる。もちろん文脈によって、日常会話で使うよりも深い意味を込めたりするんだろうが、元の単語が同じ以上、大体の意味は通じる。本来言葉とは、こうあるべきである。

だから、「形而上学」や「蓋然性」やらは失敗だったと断言したい。自分だけの意見ではない。例えばヘーゲルの著作の翻訳で知られる長谷川宏氏は、「専門用語としてはどうにか通用するが、専門外の領域では死語に等しい訳語」の例として、「形相」や「質料」を挙げている(『新しいヘーゲル』、p. 14)。

それにもかかわらず、これらの訳語が廃れなかった理由を、長谷川氏はこう記す。「哲学書をありがたいものとして一般社会にさしだしたい、という思いが哲学研究者に根強かったからである。特殊な専門用語の使用は、克服すべき欠陥とか、やむをえない必要悪と見なされるのではなく、多くは無意識のうちに、哲学書を価値あらしめる後光のごときものと感じられていたのである」(同前)。

要はかっこつけたいのである。偉ぶりたいだけなのである。

さらに長谷川氏は、その根底には「ヘーゲル[の哲学]を難しくした」(同書、p. 10、[ ]内は引用者補足)哲学風土があるとして、「風土の基本にあるのは強い西洋崇拝である」(同前)と喝破している。身も蓋もないが、どんなに賢くても、人のすることなんて所詮はそんなものである。

こうした風潮は少しは変わってきたのかもしれない。カントの思想の解説に出てくる「悟性」は、英語で「understanding」。持ってはいるが読んではいない光文社古典新訳文書の中本元訳では「知性」とされている。「[=悟性]」との注釈付きではあるが。初学者にはありがたい計らいである。

最近旧Twitterで見た書き込みによると、英語の「quantum」は「飛び飛び」という意味だという。すなわち「quantum physics」は「量子力学」ならぬ「飛び飛び力学」であると。素晴らしい。元のツイートは見つからなかったが、理論物理学者の野村泰紀教授もそう言ってるようなので、ひょっとしたら人口に膾炙するかもしれない。

おまけに言えば、ドストエフスキーの『Идиот』が英語で『The Idiot』なら、『白痴』は可哀想ではないか。『おバカさん』って感じだろうか?と思って検索したら、遠藤周作に同名の作品があるらしい。どちらも読んでない自分が言うのも何だが。

何でもかんでも日本語にしろ、と言っている訳ではない。ピッタリする単語がなければカタカナでも別に構わないと思う。

例えばドーキンスの「ミーム(meme)」とか。「遺伝子(gene)」にかけた表現だから、うまい訳語があり得たのかもだけど、余程でない限り今更だろう。あるいは自分が新人時代に悩まされた「ニッチ(niche)」にも、「隙間」では伝わらないニュアンスがある。

さて、問題は「エビデンス」だ。「証拠」でいいのか。「エビデンス」ならではの含みがあるのか。

自分の答えは決まっている。でもそれをここに書くことはできない。なぜならその前に片付けるべき仕事が待っているからだ。とある原稿で、「未来についてのエビデンス」を書けと言われて、頭を悩ませ続けているのである。

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