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尖った感性を失うことへの心許なさと、安堵と。

この混沌として、理不尽な社会を生き抜くために、意識的に感性を鈍らせているうちに、良くも悪くも’気にしない’ことが当たり前になっていく。
これが大人になるということだとしたら、言葉にならぬ苦しみにもがいていた子どもの頃の自分には申し訳ないような気持ちもあるけれど、同時に深く安堵する気持ちもある。 
あの頃、苦しみは、強烈なトラウマとして刻まれ、永久かのように思われたが、時が経つにつれ徐々に薄れ、記憶を辿らなければ、思い出すことも少なくなった。

柔らかい剥き出しの心は何度となく傷つき、瘡蓋となり、容易に折れないタフネスを手に入れた結果、いくぶんか人生は生きやすくなったが、代わりに、瑞々しく鋭い感性は失われた。
果たして、今の自分は、今まさにこの瞬間傷つき、苦しみの渦中にいる若人に、寄り添うことができる大人だろうか。

幼き自分が、憎しみを募らせていた社会と同化し、綺麗事を言う無神経な大人になってしまった自分を、どうか許せ。
いや、許すまいと、憤る子どもの頃の自分の声が、知らず知らずのうちに小さくなっていることに、ふと気づき、随分遠くに来てしまったような、大切なものを失ったような感覚に陥る。

かの有名な『千と千尋の神隠し』で、泣きじゃくる千尋にハク少年が語りかけた、

湯婆婆は相手の名を奪って支配するんだ。いつもは千でいて、本当の名前はしっかり隠しておくんだよ。 
名を奪われると、帰り道が分からなくなるんだよ。私はどうしても思い出せないんだ。

千と千尋の神隠し

子どもの頃には何とも引っ掛からなかったこの台詞が、今日この頃は、魚の小骨のようにチクリと刺さって抜けずにいる。


3年前のnote。若くて、青い。


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