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【アルゼンチン短編】 月夜の悲劇と奇跡

これは2015年にアルゼンチンへ移住した作者が、現地での生活や人々との触れあいから得た経験をもとに創作した短編です。今作のテーマは「軍事政権時代の出産」。どうぞお楽しみください。

1990年

「私たちには長女がいたのよ」

いつものように、アンヘリカは子供たちに昔話を聞かせる。何百回と話しているから、まるでおとぎ話のように語れるほどだ。

「あれは年に一度あるかないかの大雨の夜だったわ。雨で停電して、分娩室には一本の短いろうそくが置かれていたの。あなたたちのパパが私の手を強く握り続け、ろうそくが燃え尽きるころ、赤ん坊が生まれた」

3人の少年たちは、木陰の下に静かに座り、耳を傾けている。

「ふと窓を見ると、雨があがっていて、大きくてまん丸のお月様と目が合ったわ。そのとき赤ん坊の名前を思いついたの。ルナ(月)。真っ暗な世界を優しく灯す子になることを願って、ルナと名づけたの」

「ママ、素敵なお話だね」と一番下の子供は純粋なまなざしをアンヘリカに向けた。

「早く次を話してよ!」上の2人の子供が聞きたいのは、退屈な美談ではなく、その後のホラー映画のように恐ろしい出来事だ。

「わかった、わかった。ルナは女の子だったから、おばあちゃんの形見のピアスをつけさせたわ。小さなエメラルドを木で囲ったピアスをね。出産して二日目の朝、目を覚ますと赤ん坊がいないの」

「それでそれで?」2人の少年の目が大きく開かれ、キラキラと輝き出した。

「看護師さんに聞いても知らないと言うだけ。パパが来て、怒鳴りながら医者に訴えても、医者は赤ん坊は死んだと言い張るばかり」

一番下の子はアンヘリカの膝の上に抱かれるように座り、上の子供たちは目を見開き、両手で口を覆った。

「遺体を見せるよう言っても、医者はもう処分したからできないと言うだけ。おかしいでしょ。普通死んだなら、顔を見せてくれるはずだから。ルナはね、死んでないわ。誘拐されたか、誰かに売られたのよ」

2003年

マリサは人々の羨望の的だ。卵型の綺麗な輪郭に、三日月のように細い眉毛と凛とした瞳、薄い唇が正しい位置についている容姿端麗な女学生。家はお金持ちで、性格も良いから困ったものだ。

2001年に国が破綻したとき、多くの人々が倒れたが、マリサの家庭は地面に膝をつくことさえなかった。昔、誰かが「アルゼンチンには中間層がいない」と言った。つまり、大多数の貧困層と数パーセントの大金持ちだけ。もちろんマリサの家庭は超富裕層だ。

彼女の父親は不動産経営をしているそうだ。「そうだ」と言うのは、父親は仕事のことを話したがらず、マリサもよく分かっていないから。

父親は60歳台で、髪の毛は薄く白くなったが、眉毛は年齢の割に不自然なほど黒々と密集し、鼻は大きく目つきは鋭い。まるで鷲のような男だ。

「ただいま、パパ」美しい黒髪をなびかせながらマリサは帰宅した。

「お帰り、ミアモール。今日はいい日だったかい」と父親は目元を緩ませながら、マリサの頬にキスをした。愛娘の前ではまるで別人だ。

「良かったわ。ママ!何か食べるものあるかしら?」

「今、マテ茶とパンを用意するから、パパと席で待ってて」

毎日こんな感じで、マリサの家族は仲睦まじい日々を過ごしていた。しかし、家族の秘密は決して消え去ることはない。何十年前に置いてきた秘密でも、ゆっくりと家族の後を追いかけ、いずれ肩を叩く日が来るのだ。

ある日曜日、炭火焼肉アサドが出来上がるのを待ちながら、マリサはリビングでテレビを見ていた。

1980年代に行われた汚い戦争中、軍によって誘拐された赤ん坊とその母親が20年ぶりに再会したとのニュースが流れていた。

「私が生まれた時代だわ」と思いながら眺めていたそのとき、テレビが消えた。後ろを振り向くと、ピエロのように口角を上げた父親が立っていた。

「さあお肉が焼けたぞ。天気がいいから外で食べよう」

マリサには夢があった。新聞社に入り、腐敗した政府の悪事を暴くこと。夢を叶えるため、マリサはいつものよう学校終わりに図書館で勉強していた。熱心に勉強していたものの、ふとあのニュースが頭に思い浮かんだ。

「過去を知るのもジャーナリストに必要なこと」とマリサは自分に言い聞かせ、まるでテスト勉強中に漫画を読みだす学生のよう、汚い戦争に関する資料に目を通し始めた。

「3万人も行方不明者になったんだ。へー、失踪者が多いことを利用して、誘拐殺人事件を起こした家族もいたのね。ひどい時代だわ」

夢中になってページをめくる手が、ふと止まった。マリサの顔は見る見るうちに青ざめ、他の人に聞こえるのではないかと思うほど、鼓動が大きくなった。マリサは若かりし頃の父親が映っている写真を発見した。

父親は、階級の高さを示す立派な軍服に身を包み、少し顎をあげて敬礼している。今よりもずっと痩せているが、あの鋭い目とわし鼻は父親のものだ。

「どういうこと?パパは軍人だったの?しかもあの汚い戦争中の…」

家族の秘密が、マリサのすぐ後ろまで迫っていた。この世には、知らない方が幸せな真実もある。そもそも、大多数の真実は不幸である。真実を知ることで傷つくと分かっているのなら、知らない振りをしておくべきだ。

しかし、大抵の人間は生まれながらに備わった好奇心に勝つことはできない。秘密は暴きたくなるのが人間の性だ。いや、それは好奇心というよりも、真の幸福を見つける衝動なのかもしれない。

例にもれず、マリサは大きな手がかりを掴んだ探偵のように、様々な思考を巡らせてた。

そういえばパパの若い頃の写真を見たことないわ。
本当に軍事政権の官僚だったのかも。
私が生まれたのは1982年、そしてあのニュース。もしかして…

マリサは数日間眠れない日々を送った。目を閉じると、様々な推測が頭をめぐり、いつも最悪の結論に達してしまう。眠れない夜に終わりを告げるのは自分自身しかいない。

マリサはDNA検査を決意した。こっそりと両親の髪の毛を採取して、検査会社に送った。結果が届くまでの数日間、彼女は生きた心地がしなかった。

運命を握る郵便配達人が庭先で3回手を叩き、マリサは急いで庭へ向かった。

「お届け物です」

「ありがとうございます」と汗をかいた手で受け取り、じっと見つめた後、封筒を開封した。

母親は庭先で静かに肩を震わす娘の異変に気づいた。マリサのもとへ駆け寄り、母親はマリサと違う種類の涙を流した。

マリサは深夜バスに揺られていた。父親と母親に説明を求めても、彼らは謝るばかり。「数日間家を空けます」と置手紙を残し、衝動的にバスに乗り込み、もうすぐ西部ネウケン州に到着しようとしている。

「ネウケン州からチリまでは遠くないわ。デネイ(身分証明書)もあるし、このままチリまで行こうかしら」とマリヤは思い始めた。

バスがターミナルに到着して、乗客が入れ替わる。マリサはそのままチリに行くことを告げ、追加料金を支払った。

マリサの隣に座ったのは、50歳ほどの女性。アンヘリカである。アンヘリカはネウケン州に住む息子に会いに来て、これからバスでチリへ帰るところだ。

二人は特に会話をしなかった。途中、ガソリンスタンドで休憩がとられたとき、アンヘリカは水筒に熱々のお湯を補給した。

「あなたもマテ茶いかが?」と車内でアンヘリカは尋ねた。

「ええ、セニョーラ。ありがとうございます」とマリサはマテ茶を受け取り、ゆっくりと啜った。

「この雄大な自然を眺めながらマテ茶を飲むのが好きなの。この前は、コンドルが飛んでいたのよ」

「そうですか。私、チリに行くの初めてなんです」

マリサは話し相手に飢えていた。彼女の苦しみを、誰かに聞いてほしかった。同じ釜の飯を食うではないが、同じマテ茶を飲めばもう友人みたいなもの。

もう二度と会うことはない友人になら、何でも話せる。マリサはアンヘリカに、ときおり皮肉めいた笑いを加えながら、全てを打ち明けた。

「あなたの事情もよくわかるわ。でも、いくらチリが近いとはいえ、他国まで家出したら心配なさるわよ。次の休憩のとき、ご両親に電話をかけなさい」

ガソリンスタンドに到着したとき、マリサとアンヘリカは共に降りた。マリサが艶のある黒髪を耳にかけ、両親に電話している様子を、アンヘリカは水筒にお湯を補給しながら見ていた。

そしてアンヘリカは、マリサに電話を代わるように言うのだ。

「もしもし、私はお嬢さんの友達になったアンヘリカと申します。お友達と言っても、私は53歳で孫もいるお婆さんですが。お嬢さんはまだ宿泊先を決めていないようなので、よろしければ我が家に招待したいのですが。ええ、もちろんです。我が家は広いことだけが自慢ですから。2~3日後にネウケン州行きのバスへ乗せます」

こうしてマリサはアンヘリカ夫妻の家へ向かった。あとは読者の皆様の想像の通りである。

アンヘリカ夫妻はマリサをもてなし、二日目の晩、アンヘリカはかつて子供たちに話したのと同じよう、マリサに生まれたばかりの長女が誘拐されたことを話した。

「私は娘に母の形見でもあるピアスをつけたわ。小さなエメラルドを木で囲ったピアスを。1982年のことだわ」

アンヘリカがこう言ったとき、マリサは手で口を覆い、ぽろぽろと涙を流した。彼女はアンヘリカのもとへ近づき、優しく抱きしめた。月夜の明かりが二人を照らしていた。

【作者あとがき】

重いテーマを扱ったので、なかなか苦戦しました。アルゼンチン短編物語は、僕や現地の人々の経験をもとにした、実話を混ぜたフィクションです。この作品でいうと、アンヘリカの出産の話が全て実話。

以前、妻の叔母が話してくれたんですよね。軍事政権時代、大雨の日に出産して、月を意味するルナと名付けた。でも、出産して数日後の朝、目覚めたら、もう赤ん坊はいなくなっていた。医者も遺体を見せてくれなかったから、誘拐か売買されたのだろうと。

1980年代の軍事政権時代は本当に悲惨だったようです。何万という人々が失踪しています。

プッチオ家という家族は、その情勢を利用して、身代金目的の誘拐事件を起こしたんです。プッチオ家を題材にしたドラマ/映画は大ヒットを記録して、後ほど紹介する記事に詳しく書いているので、そちらもぜひ。

この時代、義父は無造作に捨てられた遺体の掃除中、お宝を見つけ「墓荒らし」と呼ばれていたそう。

今作で真実なのは、アンヘリカの昔話だけなので、叔母家族は娘さんと再会していません。

ラストにマリサがどういう行動をとるのかも一応考えたんですけど、曖昧にすることにしました。皆さんの頭の中で、物語の続きを想像してみてください。

軍事政権時代に身代金目的の誘拐殺人事件を起こしたプッチオ家。プッチオ家を題材にしたドラマ/映画の紹介記事です。

義父の半生に迫った記事。軍事政権時代の壮絶な体験が語られています。

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