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ミラネッサに込めたアイラブユー


「アルゼンチン人の女の子が恋人に作る初めての手料理はミラネッサなんだぜ」

ウェイターが木製テーブルに置いたお皿を見てマクシィは言った。


寒さが肌を突き刺す冬の夜だった。僕は、友人のマクシィと彼の弟アレクサンドラと共に、行きつけのバーで一杯していた。

とりあえずビールでいいよな、日本でもお馴染みのセリフをマクシィが言い、僕達は自家製ビールを飲みながら注文を考えた。といっても、普段はハンバーガーとフライドポテトのセット、そしてポテト用のチリソースで決まりだ。

しかし、この日は違った。何となくメニューを見ていると、ミラネッサの文字が目についたのだ。アルゼンチンの定番家庭料理ミラネッサは何百回と食べてきた。妻アントが週に2回は作ってくれる。

ただ思い返してみると、僕は一度も外でミラネッサを食べたことがなかった。もっと言えば、アントや友人達がミラネッサを注文しているのも見たことがない。

食に関して好奇心旺盛な僕は、プロのミラネッサを食べてみたくなった。

「シュンは何にするんだ?」

「僕はミラネッサにしよう」

マクシィとアレクサンドラは、顔を見合わせて、ノーノーと言った。

「シュン、ミラネッサは家で食べるものだぜ。外で食べるやつなんていないぞ」

マクシィは首に入った大きなシャチのタトゥーを触りながら警告した。確かに、周りを見回してもミラネッサを食べている客は一人もいない。だが、僕が金を払うのだ。食べたいものを食べて何が悪い。

僕はウェイターと目線を合わせ、注文が決まったことを暗に告げた。

「アミーゴス、何にするんだい?」

フレンドリーに尋ねる彼に、僕はこう言った。

「僕はミラネッサ・コン・プレにするよ」

やっちまった、とでも言わんばかりに、マクシィとアレクサンドラは再び目を合わせた。彼等とは正反対に、僕は楽しみでいっぱいだった。

***

ウェイターが料理を運んできた。お皿からはみ出したミラネッサと付け合わせとしては多すぎるプレがのっていた。

そうだ、僕はミラネッサとプレについて説明していなかった。

ミラネッサとは、簡単に言えば牛肉のカツレツのことだ。厚さは1㎝にも満たないほど薄いが、直径は15㎝を超えることもある。そしてプレは、とろとろしたマッシュドポテトだ。

ミラネッサとプレもしくはフライドポテトの組み合わせは、アルゼンチン定番の家庭料理だ。


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さっそく熱々のうちに食べてみることに。アルゼンチンのナイフの切れ味は抜群だ。包丁とまではいかないが、ノコギリナイフを思い出させる鋭さである。この形状になっているのは、毎日のように塊肉を食べるからだろう。

僕はナイフでいとも簡単にミラネッサを一口大に切った。ついに料理人のミラネッサを食べる時がきたのだ。

カツの食感の後、噛むほどにアルゼンチン牛の力強い風味が広がった。美味しい。美味しいが、特別美味しいわけでもなかった。はっきり言えば、アントのミラネッサの方が好みだ。

マクシィ達が僕に視線を向けていた。

「うん、美味しいよ。美味しいけど、」

アレクサンドラが、僕の言葉を遮った。

「言ったじゃん!ミラネッサは家で食べるのが一番だって!」

2人は大笑いした。失敗したなと思ってると、マクシィが内緒話するかのように、顔を近づけて言った。

「アルゼンチン人の女の子が彼氏に作る初めての料理はミラネッサなんだぜ」

***

マクシィが言うには、ミラネッサが嫌いなアルゼンチン人はいないらしい。僕の知る限りでも、ミラネッサが大好物という人は多数いても、苦手という人はいない。偏食家の子供たちでさえ、ミラネッサは完食する。

誰もが好きだからこそ、恋人が作る定番料理なのだそうだ。

ここで僕はある出来事を思い出した。アントが女友達と炭火焼肉アサードについて話していた時のことである。彼女らは、好みの味のアサードを作れる男性と一緒になりたいと言うのだ。

アルゼンチンでは毎週日曜日、男がアサードを作るのが伝統だ。愛する男性と共になれば、彼のアサードを食べ続ける人生になるというわけだ。美味くとも、まずくとも。

この出来事を僕は彼らに話した。彼らは興味深そうに聞き、アレクサンドラは言った。

「一理あるな。セニョリータ達はアサード、男はミラネッサを重視するのかも。ほら、毎週のようにミラネッサ食べるじゃん」

これは本当にその通りだ。アルゼンチンに住む僕達は、毎週のように母親の、もしくは愛する人のミラネッサを食べる。

ミラネッサはお袋の味であり、マクシィの言葉を借りれば、サボール・デ・アモール(愛の味)なのかもしれない。

「ところで、君たちの彼女が初めて作った手料理は何だい?」

二人は息を合わせてこう言った。

「ミラネッサ」

大笑いする彼らにつられて、片手で頭を抱えながらも、僕は笑ってしまった。

ふと考えてみると、妻アントが初めて作ってくれた手料理もミラネッサだった。あれは2014年のことだ。

***

大学4年生の僕は、ネットで知り合ったアルゼンチン人のアントと遠距離交際中だった。僕は大学生の特権である長期夏休みを利用して、彼女のいるアルゼンチン・ネウケン州に一週間ほど滞在したのだ。

彼女と初めて一緒に食べた料理は、牛肉やチーズなどを包んだエムパナーダ。大きな餃子のような形で、こぼれ落ちた肉汁が真っ白のシーツを汚してしまった。

彼女の家で初めて食べた料理は、伝統BBQアサード。彼女の父親が、日本から来た僕を歓迎する意味で作ってくれた。

そして、彼女が僕に作ってくれた初めての料理が、ミラネッサである。アサードを食べた翌日、彼女は再び僕を自宅に招待した。

空気が乾燥しているからだろうか、ネウケン州の空は本当に青い。海のように深みがかった青で、見つめていると吸い込まれそうになるほど強烈だ。こんなにも異国情緒を感じる青空は初めてだった。

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15分ほどかけて彼女の自宅に到着した。もっとゆったり散歩を楽しみたかったが、2匹の大きな野良犬につけられたため、急がざるを得なかった。

アントはすでに調理の準備を始めていた。彼女は、茶色の長い髪の毛を後ろで1つに束ね、大きなプラスチックの容器に卵を3~4個割った。オレガノと刻みニンニクをたっぷり加えて、カンカンカンとフォークで混ぜ合わせた。

それから冷蔵庫から、日本では見たことない大きな牛肉を取り出し、一枚ずつ丁寧に卵液と絡める。食欲をそそるニンニクの香りが漂った。

僕は彼女の指示通り、流しの下からこれまた大きなプラスチック容器を取り出し、小袋に入ったパン粉を流した。

彼女は薄くて平たい牛肉をパン粉の上に置き、優しく丁寧にパン粉をまぶしたと思ったら、突然拳で牛肉を叩き始めた。

ドンドンドン、ドンドンドンドンドン

力強くてテンポの良い音が空気を震わす。アントが言うには、ミラネッサは薄いほど美味しくなるそうだ。強く叩くことで、余分なパン粉を落としつつ、牛肉を薄くできるというわけである。

一枚、また一枚と牛肉が衣を纏い、いつの間にかお皿の上に、牛肉の山ができていた。彼女はたっぷりのひまわり油を、底の厚い鍋に注ぎこんだ。一つまみのパン粉を鍋に落とし、ジュワジュワと泡が出たら準備完了。

彼女は優しく牛肉を入れた。表面の色が変わると、牛肉の端をフォークで刺し、魚を釣り上げるように高くまで持ち上げた。落ちて油がはねるのではないかと心配したが、名人は器用にひっくり返す。

こうして次々と金色のミラネッサが完成した。アントは、僕との交際を知らない義母に聞かれないよう「特別よ」とささやき、ミラネッサの上にトマトソース、ハム、チーズを順番に置き、電子レンジで加熱するのだ。

チーズがとろとろに溶けたら完成。これをミラネッサ・ナポリターナと呼ぶらしい。牛肉が生地となったピザのようである。

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これは禁断の料理だ。一口食べると、カロリーやコレステロールの不安が快楽にかき消されてしまう。一枚ぺろりと平らげると、彼女が楽園の蛇のように、「もっと食べて」と誘惑してくる。ああ、よしてくれ。僕はこの誘惑を払い去ることはできない。僕はアダムであり、イブでもある。

結局、一枚のミラネッサと二枚のナポリターナを食べ、残酷な現実に戻った。失楽園である。

***

マクシィ達との会話から数日後、夕食にミラネッサが出た。それほど日が経っていなくとも、不思議と喜んでしまう。彼女がミラネッサを作る姿は5年前と変わらない。そして、それはこれからも同じなのだ。僕はこの光景を、いつまでも覚え続けるだろう。

テーブルの上に黄金のミラネッサが並んだ。アントはトマトソースの準備をしている。どうやらミラネッサ・ナポリターナを作るようだ。

「手間がかかるからいいよ。このままも好きだし」

「ダメ。あなたはナポリターナが好きでしょ!」

彼女の頭には、僕が美味しそうにミラネッサ・ナポリターナを食べる光景が残っているのかもしれない。

「君が初めて作ってくれた料理覚えている?」

「もちろんよ、ミラネッサとナポリターナ。あとフライドポテトも作ったわね」

5年も前のことなのに、彼女はまるで昨日の出来事かのように答えた。

電子レンジが音を立てる間、僕達は黒いランチョンマットを敷き、食器と白いナフキンをセットした。ミラネッサ・ナポリターナが食卓に並んだ。義母や親戚、友人、そしてレストランのミラネッサを食べてきたが、僕にはこの味が一番だ。

「マクシィがさ、ミラネッサは恋人が作る初めての手料理で愛の味がすると言ってたよ」

アントは「馬鹿ね」と笑い、微笑みながら僕を見つめてミラネッサを口にした。僕もまたミラネッサを食べ始めると、アントが再び僕を見つめていることに気づいた。彼女は、囁くような声ではっきりと「アイラブユー」と言った。

ミラネッサに込めたアイラブユー

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