見出し画像

【アルゼンチン短編】完璧な男のたった一つの欠点


「事実は小説より奇なり」。 これは2015年にアルゼンチンへ移住した作者が、現地での生活や人々との触れあいから得た経験をもとに執筆した短編です。今回のテーマは、「アルゼンチン人女性が交際する男性に求める1つの条件」。どうぞお楽しみください。


街で一番人気のカフェ、フリダには2つの名物がある。1つ目は、温かいミルクに細長いチョコレートを落として混ぜるスブマリーノ。フリダでは、毎朝牧場から届く搾りたてのミルクを使っており、濃厚で柔らかな味わいが人気だ。

もう1つの名物、それはウェイトレスとして働く23歳のキャサリンである。まっすぐ伸びた艶のある長い黒髪、キリンのように長いまつげと憂いのある瞳、ぷっくりとした唇。痩せているものの、程よく肉付きもいい、まさにアルゼンチン人男性の理想とする女性だ。それでいて、あのラテン系特有の愛嬌もあるから困ったものだ。

キャサリンはテーブルまで料理を運ぶと、必ず「楽しんでください」と声をかける。男性が見上げると、そこには微笑を浮かべた女神がいるではないか。女神は客と目が合うと、ウインクという弓矢を放って立ち去る。こうして、鋼鉄の鎧を着こんでいない男達のハートは簡単に射貫かれ、微笑みの女神に恋をする。

今日もまたキャサリンに恋した男がいた。石油会社で働く26歳のイグナシオである。彼は詩人の顔と彫刻の身体を持ち併せた美青年だ。

キャサリンはイグナシオが座るテーブルに、スブマリーノとハムとチーズのトーストを運んだ(誰もがこの組合せが大好物だ)。「ありがとう」とイグナシオが言ってウェイトレスの方を見た時、女神と目が合ってしまった。

イグナシオがぽかりと口を開けている一瞬のうちに、キャサリンはウインクをして、イグナシオの白い肌はピンク色に染まった。見事な一目惚れだった。

是が非でも、キャサリンと近づくと決意したイグナシオだが、そのきっかけが分からなかった。馴れ馴れしさを感じさせず、それでいて親しみを持って、知り合いになれる最善の方法。サンドイッチとホットチョコレートを前に、神妙な面持ちで考え込む男の姿はいささか滑稽だった。

イグナシオを哀れに思ったのか、神様は恋のキューピッドを送った。イグナシオはスタッフの中に知り合いの女性を発見したのである。彼は大げさに手をあげ、女性スタッフと頬キスを交わした。彼はチラチラとキャサリンの方を見ながら、腕を組んで女性スタッフと話しをしている。すると、女性スタッフはキャサリンの方に向かってくるではないか。

「キャサリン、あそこのテーブルの彼があなたに興味あるんだって」

キャサリンにとって、こんなことは日常茶飯事。ここでは連絡先を尋ねる時、人伝えに挨拶を送るのが古典的なやり方だ。仲介人が連絡先の書かれた紙を持って帰還すれば成功、そうでなければ失敗。

そして仲介人の話しの腕前によって、成功率が大きく変わる。この女性スタッフは見事な腕前の持ち主だった。

「彼とは高校の同級生だったんだけど、見ての通りルックスいいでしょ。ラグビー部のキャプテンもしていて、女の子に大人気だったわ。見てよ、あの筋肉」と女性スタッフはイグナシオのセールスポイントを伝える。

キャサリンがイグナシオの方を見ると、彼は微笑み控えめに手を挙げた。

「あら、そんなに人気なら浮気が心配だわ」、もったいぶった様子でキャサリンは言う。

「それが性格も良いのよ。噂なんだけど、交際経験も少ないみたい。きっと付き合ったら、一途に尽くすタイプね」

そして仲介人は最後の仕上げにとりかかる。

「それにね、彼は石油会社で働いていて、ネウケン・デ・リコ地区に住んでいるの。デートだけでもしてみなさいよ」

ハンサムな男は星の数ほどいる。ハンサムで性格の良い男は海にいる魚の数ほどいる。だが、ネウケン・デ・リコ地区に住むハンサムで性格の良い男は世界に3人もいない。いや、1人だけかもしれない。

「あなたがそこまで言うのなら」

こうして仲介人のおかげで、イグナシオはキャサリンの連絡先を手に入れた。

***

イグナシオの住むネウケン・デ・リコとは、ネウケン州にある超富裕層だけが住める地域である。青々とした芝がある赤煉瓦の家々が並び、通りには手入れの行き届いた木々で溢れている。

ネウケン州に住む人間なら誰でも知っているが、ネウケン・デ・リコ地区に住んでいるのは、石油会社に務める人間と政治家だけだ。

キャサリンとイグナシオが住む世界は違った。ウェイトレスであるキャサリンの給料は少ない。そのため、同年代の多くと同じように、20歳過ぎた今でも両親と同居していれば、レストランに行く余裕もない。

最後にちゃんとしたレストランに行ったのはいつだろう。少しばかりの贅沢は、ショッピングモールで食べるファストフード、とくに牛ひれ肉のサンドイッチ「ロミート」が彼女の大好物だ。

イグナシオは恋の相手にたっぷりの愛情と金を費やした。ショッピングモール内にあるネイル店で彼女のネイルを綺麗に塗った後、共にキャサリンの大好物ロミートにむさぼりつく。そう、イグナシオは庶民の心も持った金持ちなのである。

少しばかりドライブを楽しんだ後、夕日の落ちるネグロ川沿いを散歩。ディナーは街の高級レストランで、炭火焼肉アサドと赤ワインを堪能する。世のアルゼンチン人女性が理想とするデートだった。

この日もまた、いつものように二人はネグロ川沿いでマテ茶を飲んでいた。

「ねえ、来週わたしの家に来てほしんだけど」意を決してキャサリンは伝えた。
「ぜひ伺いたいね!君のご両親は大丈夫かい?」とイグナシオはマテ茶を受け取りながら言った。
「うん、大丈夫よ。あなたに手料理を作ってあげる!」

イグナシオが飲み終えたマテ茶をキャサリンに渡す時、二人の指が触れあった。ほんの数秒、当の本人たちにとっては永遠とも感じられる間、二人は見つめあった。そうして二人は、多くのカップルと同じよう、真っ赤に染まったネグロ川沿いで、初めてのキスを交わしたのである。

「そうだ、今週の日曜日僕の家に来なよ。アサド(炭火BBQ)をしよう。僕の友達にも会ってほしいしね」と気分を良くしたイグナシオは言った。

もちろん、恋の乙女となったキャサリンが断れるはずもない。不思議なことに人は恋をすると、どんなに経験や技術があったとしても、初恋する少年少女になってしまうのだ。

その日、高揚感に包まれたキャサリンは眠れなかった。彼の友達に紹介される、それは彼女として認められることも同然。ルックスも性格も良くて、将来安泰の王子様。これ以上、何を求められるだろうか。

ベッドで幸せな妄想に浸っていたキャサリンだが、突然現実に引き戻された。手料理に何を作ろう?彼女はこれまで、男性に料理を作った経験がなかった。

「エムパナーダ(パイの包み焼き)がいいかしら?でも、具材は?オーブン焼き、それとも油で揚げるべき?彼の好みが分からないとダメだわ。そうだ、ニョッキがいいかも。ダメダメ、ニョッキが得意料理だなんて貧乏人と思われちゃう」

こんな感じで、キャサリンは手料理についてあれこれ数時間頭を悩ませた。頭痛を感じ始めたキャサリンは、冷蔵庫に保管してある頭痛薬を飲んだ。その時、悩める乙女に一筋の光が差し込んだ。

「ミラネッサ(牛かつ)だわ!ミラネッサが嫌いな男性なんていないもの。そうよ、トマトソースとチーズをかければ、大喜びしてくれるはずだわ」

初めて恋人に作る手料理、それは主観的なものであり、一般的に正解はない。しかし、アルゼンチンでは違う。ここでは、全国民に愛されるミラネッサこそが正解なのだ。ミラネッサさえ出しておけば、大成功しなくとも、確実に失敗は回避できる。

キャサリンは天にも舞い昇る気分だった。それも当然のことだ。恋愛において、一番幸せなのは両思いを実感し、二人は一緒になれると確信した時だから。

***

「キャサリン、イグナシオとはどうなったの?」

例の女性スタッフが尋ねた。彼女は二人が恋人関係だと思い込んでいた。女性スタッフが聞きたいのは、ゴールではなく、ゴールまでの詳細な道筋なのである。

「ああ、あの人ね。今でも連絡来るけど、もう返信しなくなったわ」平然とした口調でキャサリンは答えた。

「えっ!?てっきりあなた達は交際していると思ってた!彼みたいに完璧な人は他にいないわよ!」

「確かに、彼は完璧だったわ。ある一点を除いてわね」

「何がダメなのよ!?裕福で優しい人でしょ」、女性スタッフは確固たる自信をもって紹介した男性が振られた事実に怒りさえ感じてきた。

「あのね、彼のアサドは絶望的に美味しくなかったの」

こうキャサリンが言った時、女性スタッフがハッと息を飲んだ。

「先週の日曜日、彼の家でするアサドに招待されたわ。私は花柄模様の黄色のワンピースにハイヒールを履いて、文字通りスキップしながら向かった。そうでしょ、気になる人がアサドを振舞ってくれるんだもの」

次第にキャサリンの口調に熱がこもってきた。こうなると、あのアルゼンチン人女性特有の可憐なスペイン語も、オペラのような迫力が伴ってくる。

「まず火を起こすのに時間がかかりすぎ。初めてなら分かるけど、あれで何度もアサド作ったことがあるって言うのだから絶望的だわ。火加減も強すぎるから、表面は焦げていた。もっと最悪なのは、味付けよ。塩が全然足りないの。キザに上からパラパラと振るだけ。ほら、アサドはたっぷり塩かけた方が美味しいじゃない」

これには女性スタッフも同意するしかなかった。

「彼は良い人で、尊敬も集めているでしょ。だから誰も意見できないのよね。みんな『美味しい!』なんて言ってたけど、嘘っぱちばかりだわ。あとね、彼はワインと車にお金は使うけど、アサドには無関心なの。骨付き牛肉は1つもないし、チョリソーも安っぽいものだったわ」

初めはイグナシオ側だった女性スタッフも、今ではキャサリンの賛同者である。

「あとね、ここだけの話しなんだけど」とキャサリンは声を潜めた。

「彼はモルシーシャが苦手なんだって。モルシーシャは牛の血だから、ほら、元気になるっていうじゃない。あっちの方も。言ってること分かるでしょ?今は大丈夫でも、将来が心配だわ」

女性が男性の胃袋を掴むとはよく言われるが、ここでは男性もアサドで女性の胃袋を掴まなければいけない。それにしても可哀そうなイグナシオよ。たった1つの欠点が、あまりにも大きくて致命的なものだとは。

***

【あとがき】

僕の妻はアルゼンチン人です。この話しは、彼女が家で女子会を開いたときの会話の内容をもとに創作しました。テーマは、アルゼンチン人女性は交際において、男性のアサドの腕前を重要視しているということ。

アサドとは、アルゼンチンに伝わる伝統炭火焼肉のことで、作り手(アサドールと言います)は必ず男。女子会中、彼女達は自然とアサドについて話し始めました。初めは美味いアサドについて、つまり塩気がきいていて、風味も感じられる、そして骨付き牛肉があれば最高ということ。この点においては、本当にその通りで、異論は一切ありません。

すると、一人の女性が突然「~のアサドは最悪だった」と言ったのです。それからは、アサドール・マロ(悪いアサドの作り手)についての話しに。

中でも印象的だったのは、「パパのアサドは美味しくないけど、彼氏のアサドは美味しい」、「ある男を愛することは、彼の作るアサドも愛する」というもの。

ここでは毎週日曜日や祝日、誕生日などのイベント時にアサドを作ります。つまり、アサドールの腕の良し悪しに関わらず、恋人が作るアサドを一生涯食べ続ける必要があるのです。当然ながら、どうせ食べるなら美味しいアサドがいいですよね。車や家の増改築にお金をかけるよりも、骨付き肉を買ってほしい。

男を愛するから彼のアサドも愛するのか、男のアサドが美味いから彼を愛するのか。これは極論であり、今作も事実を基にしたフィクションです。実際には、アサドが下手だから男と別れることは、おそらくないでしょう(断言はできませんが)。

ただ、アルゼンチン人の女性がアサドの味を重要視しているのは事実です。ちなみにアサドの時、ライターやナイフでビールの蓋を開けると、女性に一目置かれます。

サポートありがとうございます。頂いたお金で、マテ茶の茶菓子を買ったり、炭火焼肉アサドをしたり、もしくは生活費に使わせていただきます(現実的)。