ある雨の日のアルゼンチン
それは珍しい一日だった。昨夜から、雨が静かに絶え間なく降ったのである。
雨の日の朝は、苦いマテ茶で目を覚ますのが一番だ。午前8時でも外は暗い。ああ、冬が近づいている。どうりで寒いわけだ。
ストーブが部屋を暖めるまでの間、緑のパーカーを羽織る。それからやかんに冷たい水道水を入れ、コンロでお湯を沸かす。
マテ茶を飲む最適なお湯の温度は80度くらいだそうだ。熱すぎると茶葉が開きすぎて渋みが出るうえ、熱いマテ茶がボンビーシャ(ストロー)を通り、直接体に入るので喉やお腹にも悪いのが理由だと聞いたことがある。
だが、僕は冬の朝、特に雨が降った朝は熱々のマテ茶を飲むのが好きだ。やかんの蓋がカタカタと震えだしてから、火を止める。
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若い人々は、マテ茶にたっぷり砂糖を入れて飲む。甘マテも美味しいが、僕からすればお子様の味である。以前、「大人がブラックコーヒーを飲むように、マテ茶も砂糖なしで飲めてから一人前」と一丁前にアルゼンチン人の嫁に言うと、「何言ってるの」と一蹴された。
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まだ嫁と息子は眠っている。僕の朝は苦いマテ茶と共に始まるのだ。マテ壺にボンビーシャを置いて、スプーンでシェルバ(茶葉)を入れる。3分の2ほど入れたら、手で蓋をしてマテ壺をひっくり返した後、手で押さえたまま壺を戻して、少し縦に振るのだ。こうすることで、シェルバの粉が底にたまらない。
そして、ボンビーシャが刺さった付近に、ゆっくりと常温の水を入れるのだ。事前に茶葉を水で濡らすことで、茶葉が開きすぎるのを防げる。さて、準備が整ったところでマテ茶を楽しもう。
美味しいマテ茶を飲むポイントは、お湯の温度や茶葉の種類など様々だが、一番大切なのは注ぎ方である。勢いよく注いで美味しいマテ茶になった経験は一度もない。優しくお湯を注ぐのだ。
すると、お湯がゆっくりと底に沈み、茶葉がふわりと浮き上がってくる。マテ茶が息をするかのように、ぷくぷくと泡が出てきたら成功だ。これで程よい苦みのマテ茶を楽しめる。
しかし、どんなに美味しいマテ茶でも一口目は、渋みが出てしまう。一口目を口に含んだら、シンクにペッとマテ茶を吐き出す。黒く濁った血を思い出させる液体がシンクを汚した。
二杯目以降は美味しいマテ茶だ。降り続ける雨を見ていると、普段ならこの時間にはない隣人の車が目に入った。彼は建設業だから、今日は休みなのだろう。
マテ茶をひとしきり飲むと、パソコンを開いて仕事の準備をする。雨の日のBGMは、アルゼンチンが誇るロックンローラー、Andres Calamaroで決まりだ。Spotifyの「Andres Calamaro Radio」をかける。雨の日の僕には、マテ茶とAndres Calamaroがついている。
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昼時になると、嫁がランチの準備を始めた。スライスした玉ねぎをニンニクと共に炒め、キャラメル色になったら大量のトマトソースで煮る。その間、別の鍋で鶏肉のラビオリを茹でている。手際良くオレガノなどの香辛料でトマトソースの味付けをし、茹でたラビオリはバターと混ぜる。最後に、ラビオリにトマトソースとたっぷりの粉チーズをかけたら完成だ。
食後、マテ茶を飲んでいると彼女は「雨降ってるから、今日はシエスタだからね」と言う。「しょうがないなあ」と口では言いながらも、初めから昼寝する気満々である。
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僕の住むネウケン州は、アルゼンチン中西部に位置し、アンデス山脈を挟んでチリと隣接している。昔は「砂漠」と呼ばれていたこともあるそうで、その面影を残すように、今でも年中乾燥している。
雨が降らないため、この地域の人々は雨が降ると喜ぶ。特に、雨の日のシエスタは最高と言う人が多い。ポツポツ(土砂降りになることは少ない)と降る雨音を聴きながら、贅沢に昼寝を楽しむのだ。
移住して4年もたつと、雨の日は昼寝日和と体に根付いたみたいだ。普段は眠くないのに、眠気に襲われている。寝室を真っ暗にして、ベッドに入ると彼女が抱き着いてきた。彼女の暖かな体温を感じていると、いつの間にか眠りに落ちてしまう。
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シエスタの他に、もう1つ雨の日の伝統がある。それがトルタフリータ(揚げパン)を食べることだ。小麦粉を練った手作りトルタフリータもいいが、今日は甘いファクトゥーラ(菓子パン)も食べたい気分だったから、行きつけのパン屋に行った。
すでに雨は上がっているが、どんよりとした曇り空。そんな曇り空とパン屋の真っ黄色な看板が妙にあっている。
「トルタフリータとファクトゥーラください」
「ちょうど今、トルタフリータ揚げたばかりなんだ」
「おぉ、ラッキー。じゃあ、もう少し多めにもらえる?」
「雨が降るとお客さんがたくさん来るから助かるよ」
トルタフリータの温かみが、ざらざらとした茶色の紙袋越しに伝わってくる。水はけが悪いせいか、道路は雨水であふれている。大人は靴を濡らさないよう軽やかに水たまりを飛び越え、野良犬たちはのどを潤している。こんな風景も雨の日ならではのものだ。
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帰宅すると、隣人が来ていた。
「今日は仕事休み?」
「雨が降ると危ないからな。シュンは仕事してたの?」ゴンサルオが尋ねる。
「うん、でも雨が降ってるから午前中で切り上げちゃった」
「家で働いてるから、雨関係ないでしょ」嫁がつっこめば、エヴェは大きな声を出して笑う。
「ほら、トルタフリータ買ってきたよ」
嫁と隣人夫婦とマテ茶を回し飲みしつつ、塩気のあるトルタフリータと甘い菓子パンを食べた。すると、嫁がぽつりとつぶやいた。
「私のママのトルタフリータが一番美味しいと思うわ」
僕はめったに降らない雨の日に、アルゼンチンにいることを強く実感する。たまにしか出会えない、光景や雰囲気、伝統を雨がもたらしてくれるからだ。
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