"死"について考える
何かが死ぬ、というのがよく分からない。
生まれる時は大体の予測がつくのに
死ぬ時は何年後、何十年後かもしれないし
明日突然やってくるかもしれない。
恐れる人もいれば望む人もいて
軽々しく死にたいとは言えるけど
人からいざ死ねと言われると
多分この上なく傷つく
何カ月か前におじいちゃんが死んで
思ったのは
人は死んだら骨になるってこと。
魂が残るとかなんとか言うけど
人は死んだら
他意なく骨になるということを知った。
私はキリスト教世界が好きだから
死後の魂に期待してしまうのだけれど
でも死んだら焼かれて終わるんだなあと気づいた。
葬式でみんな骨になったおじいちゃんを見たはずなのに
そのあとにお寺で聞いたお坊さんの
「魂は残るんですよ」
「死ぬことは元いた場所に帰る、帰真というんですよ」
っていう言葉に感心しててびっくりしちゃった。
骨になってたの見たじゃん!
仏の世界に帰るも何も、もう骨しかなかったじゃん!
って見たものだけを信じてしまう私がいる。
死んだ家族が空から見守ってるよ、みたいなのもないと思うけど
それにすがりたい気持ちがあるんだろうな、
ところで誰かが死んだとき、その周りの人たちのことで
どうしても許せないことがある。
死んだ途端に掌を返すこと。
うちのおばあちゃん、おじいちゃんに死ねってよく叫んでたくせに
いざ死んだら放心状態で、お供え物とか戒名とか必死になってた
人が死んで悲しくなるのが悪いとかそういうことじゃなくて
死んだら美談になったり良い人になったりっていうことはないよっていう話
おじいちゃんは生きてるときも死んでからも
酔っ払いで雑で、あんまり覚えてないけどそんな感じの人
だから最後に人工呼吸器で生かされてたおじいちゃんに会って
看護婦さんに「おじいちゃん優しかった?」って聞かれたときに
私は「はい」って言えなかった
だっておじいちゃんに「優しい」っていう言葉が似合わないし
おじいちゃんを優しいと思ったエピソードないし
とにかく優しいおじいちゃんではなかったから
もうほぼ死んじゃってる目の前の飲兵衛じいちゃんを
優しいおじいちゃん、にはしてあげなかった。
ちゃんと悲しかったし大泣きしたけどね
でも死んだら掌返すのが嫌い
急に褒めたり良い話ばっかりしたりするのが嫌い
生前にしたことを全部全部合わせたのがその人だ
死んだからって悲しんで、哀れんで、
良い人でしたっていうのは違う。
死んでも罪を犯した人は罪を犯した人として死ぬし
飲兵衛は飲兵衛だし。
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