To 新山健吾

創作企画「あなたへ贈る物語、書かせてください
新山健吾様からのご依頼
あなたのことを元にした物語

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東大の卒業式は、やはり欠席することにした。

どうも僕は、式典というものに出ることができない。入学式も、体育祭も文化祭も、成人式も、ありとあらゆるそれを度々拒んできた。一度、大学の入学式だけ両親に泣きつかれて出てやったけれど、学部総長の演説の途中で我慢が効かなくなって結局退席してしまった。しかも、スーツに真っ黄色のスニーカーというとても奇怪な衣装で、威風堂々と。あとで親とは大喧嘩になったものだ。彼らが気の毒かどうかはどうでもいいものの、社会でやっていく分には望ましくない体質であるとは自覚していた。なんだかんだ世の中は「みんなで力を合わせてエイエイオー!」ができなければ生きづらい。改善しておきたくはあるのだが。

でも、今日の卒業式だけはどうしても足が向かなかった。確かに僕は必要な単位は取ったし、卒論だって出している。しかしそれは、学校というシステムが指定している簡便な基準に過ぎないように思えた。僕自身は、その基準を条件にすることができそうもない。まだわかっていないことが外に対しても自分に対しても山ほどあるし、それを処理する能力だってほとんど身につけられた気がしていない。僕は、何から卒業できたというのだろう?

そういったわけで今は、学校帰りなどに月に二度ほどの頻度で通っていた喫茶店の隅の席に座っている。いつものオムライスとブレンドコーヒーを頼んで──自分で選んでここに来たのにどうしてだか、少し、待ち時間がいたたまれなくなって──ノートを、開いていた。学問用のものではなく、創作のためのノート。僕は文字という概念を知った頃からずっと、物語を書き続けている。二十年近く行ってきたそれはもはや習慣であった。趣味か生きがいというよりは、歯磨きやストレッチと同じ位置に属しているのだ。
ぱらぱらとノートをめくった。何かを探したかったわけじゃなく、ただの逃避のためだった。しかしそうしているうちに、あるページの片隅の一言が目に入った。「外されていた薬指の金属製のリング」。……その持ち主であった人を思い出すのに、時間は一秒もかからなかった。かつての恋人。僕と十以上歳の離れていて、強い好奇心と警戒心を併せもった、ちょっぴりちぐはぐで不思議な人。
ふいに、小説を書いてみたいと思い立った。彼女との間にあった出来事を、そうだ、どうして今まで書こうとしなかったのだろう。そんなことすら考えたが、これはすぐに心当たりが見つかった。それは単に触れたくない過去だったからではないようだった。
スマートフォンのメモアプリを開く。いつもだったら執筆の際にはパソコンを使用するのだけど、どうしても、今書きたかった。今日、書くべきだ。きっとそのために僕は、彼女のことをこのノートの上に置いておいたのだ。
大学は、壇上のお偉い方が祝辞でも述べている頃だろうか。

プラットホームで、点字ブロックから一歩踏み出て線路をこっそり覗き込んでみることが、今でもある。別に、飛び込んで轢かれてやろうとは思っていない。いくら僕でも、あんな誰の特にもならない自殺はごめんだ。痛いしグロテスクだし、運転手や乗客に恨まれる死後というのも嫌だし。
そもそも、僕は死にたいわけでもない。
僕が真夜中の山の中に入ってみたり、ビルの屋上の縁に立ってみたりするのは、スリルを楽しみたいから。ただそれだけ。
点字ブロックと線路の間の一メートルにも満たないホームの先端で、生と死の狭間にあるぞくりとした快楽の手触りを、指先だけででも確かめたいみたいだけなのだ。

右の二の腕に重みと温もりを感じながら、僕は何故か地下鉄に立っている自分のことを思い起こしていた。感覚の正体は、自分よりも少し年齢を感じる顔と躰をして瞼を閉じている女性。彼女も僕も裸だった。
数時間前に、古い友人が働いている居酒屋のカウンターで偶然隣り合わせた人だった。全く知らない他人同士の僕らはいつの間にか、どちらからともなく会話を始め、互いのプロフィールを公開しあった。年齢は彼女が三十代の始まり、僕は十代の終わりだった。
「どこに住んでるの?」
居所もやがて聞かれた。
「今夜はここから歩いて三十秒のマンションに泊まる」
「『今夜』はってどういうこと?」
額に乗っかった眉がひそめられる。僕は婉曲的な言い回しを、また意図的に続けた。
「明日は別のところに泊まるということだよ」
彼女はさらに首を傾げた。しかし僕が何かを言おうとするとそれを遮り、
「もしかして家出少年?」
と尋ねてきた。随分とストレートで話の早い質問だと思った。それで僕は頷いた。
「こう見えても家出歴七年のベテランなんだ」
これは紛うことなき事実であった。僕は中学生の時点で寮生活という円満な家出を実行していた。その目的は息苦しい家庭からの脱出、これに尽きる。
「私はその倍くらいになる」
彼女はそう言った。その話も、事実であった。

僕らはすっかり出来上がり、店を出るとすぐに向かい側のマンションの部屋に向かった。やることをやった。そこで初めて彼女の左手の薬指で金属製の輪が冷たく光っていることに気づいたのだけど、見なかったことにした。こうして、現在に至る。
彼女もまた、僕のあらゆる縁を爪先立ちで歩く人生の象徴の、一つとなるのかもしれない。そんな感想を抱きながら、僕は同じように眠ることにした。
新年が始まって間もない頃の出会いであった。

さて、この辺りでオムライスを食べておかなければならない。もう既に出されてから三十分近く経っていると思う。なんだか申し訳ないことをした。無計画に文章を綴り始めたら、注文していたことをすっかり忘れてしまっていた。

ところで、「彼女」は僕が小説を書いているということを知らないままだった。本来僕は、自分がものを書く人間であるということを知人に執拗に隠しはしない。特に隠すものではないとしているから。しかし「彼女」には知らせずにいた。数ヶ月であったとはいえ頻繁に顔を合わせていたのに、「彼女」のいる前で小説を書くことはなかった。僕のあまりにもキザっぽい言葉回しに「彼女」が「詩人にでもなりたいの?」と尋ねてきたことだってあったのだが、その時でさえ「悪くないかもね」としか相槌を返さなかったのである。

もう式次第は終わっただろうか。式の後は学部内の交流会も開かれると聞いている。それも行くつもりはない。流石にこれを書き切るまでは居座りがたいから、もう少し書いたらここも出ようと思う。だがそれにしても、こんなにもするすると筆を走らせられるのは初めてかもしれない。小説とは言いつつ、思い出を整えただけの文章にほとんどなっているけれども。
おっと、コーヒーは冷めないうちに飲むようにしないと。

二回目に会ったとき、彼女の薬指はリングを身につけていなかった。しかしそれにも気づかぬふりをした。そこにリングがあったことも気づいていたことになるからだ。二回目もやることをやった。今度はお互いに素面だった。
会う回数を重ねるごとに僕らは親密になった。頻繁に遠出もした。天文台とか、ディズニーランドとか。楽しかった瞬間はメインイベントにだけでなく、天体の代わりに観察した知らないおじさんの頭だとか、迷子になった彼女を見つけ出して一緒に走った開演直前のパレードの道だとか、その隙間や前段階の部分にもあった。彼女と過ごす時間に起きることは、どんなにささやかなものでも特別であるように感じられたのだ。互いがこの出会いを、限定的で、かりそめのものに過ぎないと割りきることができていたのが、良くも悪くも効いていたんだと思う。まるでページの記された絵本のようなひとときだった。枠の中に描かれた文字と絵を追って一緒に朗読するときと同じように、僕らは二人だけの世界に夢中になっていた。そして、めくる度に薄くなっていく残りのページがわかるのと同じように、終わりの存在を確かに知っていた。


その日は嫌な夜だった。昼下がりの出来事で生じた心の重たさが、一ミリグラムも和らぐことなく、むしろさらに質量を増してのさばってきていた。今日は彼女がこの仮住まいに訪ねてくることになっていたが、うまくこの陰鬱さを抑えられる気がしなくて、そんな自分への二重の嫌悪感にも苦しめられていた。
簡単に言ってしまうと、友人に傷つくことを言われた。僕も悪かったのかもしれない。彼は僕に自分の恋人の不貞について相談をしにきていたのだけど、あまり気の利いた答えを返すことができなかったのだ。それどころか、「あんなだらしのない男の何がいいんだ」という彼に「それは高慢じゃないか?」とまで口を挟んでしまった。あの場で言うべき一言でなかったと振り返ってみると思う、のだけど。
この手の悩みに、どうしても共感できないのだ。彼のような──エリート志向の強い人間の言う愛や夢とは、他人を嫌悪してでも手に入れる必要性があるものなのか。その渇望が、僕には不憫に見えてならない。惰性で人生を切り抜けようとする人間を無価値だと嫌い、さらに自分の正当性と優越感の保持のために利用さえしているような。その思考こそが無意味なのではないか。常に何かを欲していなくたっていい。目標を立てたとしても、手に入らないものは手に入らない。それじゃあ駄目なのだろうか。自分がどう努力しても得られなかったものにも激しい失望を抱いたことがない僕は、そんなことを考えて辛くなってしまう。嫌いなんじゃあなくて、気の毒で。それと……
何度か彼らとのズレを目の当たりにして、僕の方が少数派であるらしいというのだけはわかったから配慮はするようになったが、気持ちを理解できないままでは限界があった。正義を執行したいのではなく、ただ自分の心に浮かんだ疑問を解消するために、今日みたいな「人を傷つける正論」とやらを時折口にしてしまうのである。
「俺が間違ってるって言いたいのかよ」
友人は苛立ちと、動揺を滲ませた目で僕を睨んだ。それから少し反論をしてきたが、三、四周応酬をした後には泣き出してしまって、やがて手の甲で涙を拭いながら「もういいよ」と告げてきた。
「お前は強いんだな」
どこか嘲りを含ませたような声と表情で続けられる。強い? そんなことはない。僕は妬みを知らないだけだ。僕は強くなんかない。僕だって傷つくことはある。僕だって。
何と言って返せば理解してもらえるかと言葉に詰まっているうちに友人は立ち上がって、とどめの一言を吐き捨ててきた。
「いいよな。何でも手に入れられるから、何にもいらないんだろうなお前は」
……脳内で何度も何度も再生されるそれは、ほとんど空っぽのこの部屋によく反響するようだった。三代都心に一等地にある、家賃月数十万のマンションの一室。必要最低限の家具や調理器具の他にはただ無機質な優良さと清潔感しか存在しないこの空間が、僕と重なって見えた。肩書きという見かけだけが一丁前で、役割は未だ見出せぬままで。
ああ、嫌いだ。僕も、僕自身を正当化ばかりしているんだ。何かを求めて必死になっている人間を哀れんでばかりいる裏で、何かを信じ続けられたことのない不器用な自分に見切りをつけようとしている、それでもようやく、立っているのがやっと。
僕が一番嫌いなのは、自分自身だった。

「今日はなんだか、浮かないじゃない」
数えることももうすっかりやめてしまった何度目かの行為の後、傍で彼女が囁いてくる。やっぱり、僕は上の空になっていたらしい。うん、と返事をした声も、多分ぼんやりとしたものとなっているのだろう。
どうしても、僕は彼女の気持ちを確かめたくなった。
「ねえ、僕のこと好き?」
「おおむね」
「僕と付き合ってくれるか?」
「付き合う?」
驚いたような声で彼女が、まだほのかに紅い上体を起こしてくる。ほどほどの乳房とつるりとした肩と、ひそめられた両の眉が目に入った。僕も驚いた、自分の言ったことに。あまり言ったことのない類の言葉だった。なんだか、似合わなかった。
「なんでもない。天井と喋っていたんだ」
僕は言った。彼女は再び身体を倒して、僕の腕に額を埋めた。
「私は何も持たない新山君が好き」
フラットで、大人びた口調だった。
「僕もね、誰のものにもならない君が好きだよ」
少し揺れて子どもじみた声に、彼女は気づいていただろうか? なんて、意味のない問いだ。
どちらにせよ彼女が気づかないふりをするのは、しなければならないのは、わかっている。


大学の授業が始まるタイミングで僕は運営代行の仕事をやめ、同時に彼女の一人暮らしの部屋にしばらく住まわせてもらうことになった。悪くない生活だった。幸せって、ああいう時間のことを言うんだろう。寂しさを知らないでいられた。知らないふりを、していられた。
そうだ。僕も彼女も、互いにとって都合の良いふりばかりをしなければならなかった。自分を少しでも、まともで倫理感のある大人として存在させるために。
本当は僕は、違った。初めて彼女の部屋を訪れた日、そこにあるさまざまな小道具を羨んだ。玄関にあった「おつかれさま」と刺繍されたフェルト細工のマトリョーシカ。閉められた扉の裏の「今日もきっといい日」と書かれた木札。洗面台。電気湯沸かし器。ベッドの上の大きめのぬいぐるみ、そのファスナーを開いて出てきた湯たんぽ。玄関の小物と同じような心温まるメッセージがプリントされたハイビスカスのハーブティーの粉末の袋……その全てが彼女の寂しさを埋めるための工夫であるように思えて胸が詰まった。
これが皆の言う、嫉妬心に狂う、ということなのだろうか。一瞬そんなことが脳裏をよぎったのだけど、すぐに違うなという結論に至った。どちらかに優劣をつけたいからというわけではなく、風と波の対比ように単に性質として、異なっていた。
僕のこれは妬みではなく、飢えだ。湯たんぽの代わりに、僕が、彼女へぬくもりを差し出したかった。ハーブティーの代わりに、僕が、あたたかいことばをかけたかった。僕は、彼女が見ているものをみんな消してしまいたいのではない。その全ての、代わりになりたかったのだ。
「私、もうじき結婚する」
その日の夜、自分の生活用品と雑貨に嫉妬をした男の腕の中で彼女は言った。
「知っていたよ」
彼女の隣にいる僕は、どんどん僕ではなくなりつつあるようだった。僕は僕の発言と僕の声に動揺し、初めての感情への嬉しさをどこかに感じていた。さらにその上に、どうしようもない虚しさがのしかかっていた。
「僕は君の、代用品の代わりだ。君の婚約者の代わりにぬくもりを提供する湯たんぽの、さらに代わり。実に光栄なことだと思うよ」
だけど終わりを告げられた今、僕のその声は僕の欠陥を示すものでしかなくなっていた。
彼女はその欠陥を、やはり受け流し、間を置いてから「再来週にはここを引き払う」と付け足した。それからまたしばらくしてから、
「私は、やっぱり、ひどいことをしている」
そうくぐもった声で言った。
「そんなことはないよ」
僕は返す。
「愛がなければ全てはごっこ遊びなんだ。ごっこ遊びに善も悪もない」
彼女がくすぐるように小さく笑うのを感じたが、あまり楽しそうではなかった。
「ほんと新山君てさ、クサいセリフを大真面目に言う」
「僕はこの病気をある友人にうつされたんだ」
「いつかそのお友達にも会ってみたいな。一体どんな話をするのか聞いてみたい」
「タイミングが合えばね」
そう言ったが、彼はもうこの世にいなかった。僕と同じ、スリル狂の男であった。
ある日彼はビルの屋上から落っこちて、死んだ。

本気で死を望んでいたことも、かつてはある。中学校から高校に上がるあたりだ。あの頃の僕は、未来というものがみんな悲しみと痛みに覆われてしまっているように見えていた。何を目指して生きてゆけばいいのかを、考えることにさえ疲れていて、何もかもやめにしてしまいたかった。実際に、決行に移しかけた日すらある。引き返したのにだって、何か心の拠り処がもたらされたとか、前向きになれる理由は存在しない。ただ、少し押されただけだ。あの日経っていたこの世の淵から、二歩ほど内側へ。もしその力が向こう側へとはたらいていたのなら僕はほぼ確実に、抗うことなく落ちただろう。たまたま、淵に立つ度に幸運が悪さをしたから、結局今も、僕は此処にいる。

「死にたい」を見送っているうちに、僕はある程度正常な賢さを獲得していった。死とは人に迷惑をかけ、傷つけてしまうものであると知った。そうしてかけた迷惑のほとんどは、回り回って自分に返ってくる。返ってこなかったとしても、罪悪感や不安などからは逃れられない。それは自分に取っても不都合なのだと、考えられるようになった。自らを律し始めた。たとえば、他人に抱いた違和感をむやみに口に出さないようにする。他人を傷つけることで、自らが傷ついてしまわないように。たとえば、どんな問題に直面しても、取り繕い、自力で解決する努力をする。胸の底にこびりついたままの苦悩を忘れながら。律するとは、うまく生きるとは、諦めるということなのだと自分に言い聞かせるようになった。
そしてその一方で、小説を書いた。僕の心が見てきた「何か」を、おそらく小説という形でしか切り取れない「何か」を、完全に置き去りにしてしまうのは惜しかったから。とても醜いものだとわかっていても、本当は大切にしたかったから。

僕は何故、「彼女」に小説を書いていることを黙っていたのだろう。

二週間ほどの間、僕たちは恋人ごっこのフィナーレを楽しんだ。彼女が仕事へ出ていくのを見送り、しばらくしてから僕も大学に通った。授業を終えると、彼女の家に帰った。大抵の場合は僕が先だった。それでも、なるべく早く帰るようにしていた。一緒に料理も作ったし、他の家事もこなした。引越しの準備すらも手伝った。そうしてあっという間に時間は過ぎ去り、初夏の匂いのする頃になった。

最後の日の夜、彼女は僕にこんなことを言って聞かせた。
「ねぇ、覚えていてほしいことがある」
「恋人ごっこの台本なら、おおよそ頭に入っているよ。明日の分もね」
僕が例の癖を発動させると、彼女は「そうじゃなくて」と真剣な声音で言って、僕の肩を引いて自身と向かい合わせた。そして薄明かりの部屋の中、僕の両目を覗き込んだ。
彼女は言った。
「ここにはちゃんと、何かがあったの」
それから僕の手を取り、自分の裸の胸に触れさせた。
「ここは、今はもう、空っぽかもしれない。でもね、かつては、確かに、何かがつまっていた。信じてくれる?」
自分の指先が冷え切っていただけだったのかもしれないが、彼女の胸はとても熱かった。その場所は、一定のリズムを刻んでいた。刻み目の一つ一つが愛おしかった。
「信じるよ」
本当は、言いたいことが他にあった。僕の胸の中の話を聞いてほしかった。
僕だって、空っぽだ。空っぽじゃないと、いけなかった。そんな言い訳ばかりして生きてきた自分を誰かに、君に肯定してもらいたかった。そしてできることなら、僕の空っぽを君の膨らみで満たしてほしかったし、君の空っぽだって僕の膨らみで満たしてしまいたかった。
でもそんなことは言えなかった。彼女を迷わせてしまう気がしたから。そんな権利、僕のどこにあるのだろう? 不貞腐れてうずくまったままの僕の望みなんかより、未来へ進もうとする彼女のおそらく最後の願いの方が美しいに決まっているのだ。
「そこには何かがあった」
彼女のことばを繰り返してやると、覚えていてね、と手首の握られる力が少し強くなった。僕は、頷くので精いっぱいだった。


LINEに彼女からのメッセージが送られてきたのは、別れて三年後のことだった。心当たりのない名前からの連絡だったが、それは彼女の名字が変わったためであった。
そこには赤ん坊の写真と共に、子供が生まれた、という一言が添えられていた。苦しんでいるのか喜んでいるのかよくわからない、微妙な表情の赤ん坊。気づけば涙が、自分の頬を伝った。
この涙ととてもよく似た味の涙を、僕は知っていた。高校一年生の、夏の最後と秋の最初を跨ぐ真夜中。曇り空の下を僕は早足で歩いていた。近くの公園の崖に行って、そこから飛び降りてやるつもりだった。なのに、崖の鉄柵の向こうに紅い月が出ていて。満月の、一日ほど手前の月だけが、雲の隙間に残っていて。俯いた目のような姿のそいつとしばらくにらめっこをして。あの、涙だ。もう長いこと忘れていたのに、突然溢れてきたあの涙。止まらなかった。滅茶苦茶に、きつく搾られる雑巾になったように泣き続けた。ひとしきり泣いた後にちょうど雨粒が手の甲を叩いて、それで僕は帰ろうって、決めることができたんだ。
〈君の胸は、空っぽなんかじゃなかった〉
涙が止まると僕は熱いままの眼をはたらかせて、そんな感じのメッセージを送った。
〈軽くなったり、重くなったりすることはあるかもしれない。でも、空っぽになったことは一度もなかったんだ。これからだってない〉
僕も本当は、とても少なかっただけで、何にも入ってなかったことはないのかもしれないと、ふと思った。揺すってみれば、からからくらいは音が聞こえるのかもって、信じたくなった。いや、そうだよ。だって何もなかったのなら、「何か」を小説にできるはず、ないじゃないか。
しばらくして、
〈新山君との恋人ごっこ、楽しかった。ありがとう。忘れない〉
というメッセージが返ってきた。お辞儀をする不思議な生物のスタンプが後に付いてきた。かつての彼女の部屋にいた、マトリョーシカやぬいぐるみとよく似たイメージのキャラクターだった。
〈家族ごっこを〉と打ってみて、全ての文字を消した。次に〈また家出したくなったら〉打って、やっぱりデリートキーを押した。
〈お幸せに〉
やがて、そう送信して彼女とのトーク画面を閉じると、知らない名前となったアイコンを長押しして連絡先を消した。
それが

「それが彼女にできる、僕にとって最良の最後の選択だった」
電車の列の先頭で最後の一文を書こうとしたところで、僕は手を止めた。実は書き始めの早い段階で、結末の一言として考えていたフレーズ。ここまで書き上げた今、間違いだったと感じたわけではない。後悔だってなかった。
でも、「最後」ではなかったのかもしれない。
僕はあの時のプラットホームでの選択により、彼女とのことを終わらせることができたと思い込んでいた。しかしどうやら、続きを残していたみたいで。
卒業式を欠席した僕は、自宅にはこもらず大学の近くの喫茶店までやってきた。
君を明るい言葉で送り出したはずの僕は、君のことを十字架に架けるように小説に描いてしまった。
綺麗に終わらせることができるほど、やっぱり僕は強くはない。
けれども今度こそ、本当に最後。
電車の頭がホームに迫ってくる。僕はそこに飛び込む自分の姿を一瞬だけ想像して、実行には移さなかった。
この物語が、最後のわがまま。

そして君だけに捧ぐ、僕の卒業の儀式の代わりだ。


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ご依頼主様からのこちらの作品を基に書かせていただきました。

その他、ご本人とのDMのやり取りと以下の記事を参考にしております。

いや多いなっ。
ご紹介と共に、お礼申し上げます。

皆様からのご依頼も、お待ちしております。

この記事が参加している募集

私の物語を読んでくださりありがとうございます。 スキやコメントをしてくださるだけで、勿体ない気持ちでいっぱいになるほどに嬉しいです。うさぎ、ぴょんぴょこしちゃう。 認めてくださること、本当に光栄に思っております。これからもたくさん書こうと思っておりますので、よければまた。