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【エッセイ】ややこしい、わたしの名前


こちらのコンテストへの応募記事です☺︎

とても久しぶりにエッセイを書いてみました。


最近は、すっかり幽霊部員と化している
「エッセイのまち」の住人Sazanamiです。
よろしくお願いします☺︎☺︎





おなじ名前のひとに、出会ったことのないのが自慢だった。

「発音が濁らないように」と、母がつけてくれた名前は、世界のどこにもいない独特な名前だった。

めずらしい名前だね、と言われれば言われるほど、わたしの鼻はめきめきと高くなり、そのまま高校生になった。



2年生の夏休み前、
古典のテストで事件は起こった。

テストに出たのは、12ヶ月すべての暦の「和名」の読み方だった。1月なら睦月、2月なら如月……。

そして、ある暦の和名から濁点を抜いてある
わたしの名も、例に漏れず出題された。

40人いたクラスメイトの半数が、その暦に限って、和名の読みではなく「わたしの名前」を書き、戻ってきたテストを見て、悲鳴とも驚愕ともつかない声をあげていた。

そして、そのなかの誰かが言ったのだ。

「まぎらわしい」と。


言われてみれば、幼稚園のころからクラス替えのたびに名前を間違えられ、あとは訂正するのも億劫になり、名前の発音を濁らされても「はい」と返事をしてそのままにしていた。


大学に通うころには、もう自分の名前を誇らしく思うこともなくなっていた。

ややこしい、面倒な名前。
本来ついているはずの濁点を取ってしまっているので、なんか素直じゃない感じもする。

ひねくれた性格は、名前のせいなんじゃないかとさえ、訝るようになっていた。


「なんでこんな、まぎらわしい名前にしたの」

苛立ちを隠さず母に訊いた。
その答えは、小2のころ「お母さんに、自分の名前の由来を聞いてみましょう」と担任の先生に言われて尋ねたときと、なんら変わっていなかった。

「発音が濁ると嫌だから」

「別にいいじゃん、濁っても」

「そう? 濁らないほうがいいじゃない。清らかで」

母の言った「きよらか」が、
川のせせらぎのように耳に流れた。




就職して、いろいろあった。
つまびらかには書けないけれど、「あることを、ないことにはできない」と思う局面が山ほどあった。

いま、こころの中にあるものを、「ない」ものとして振る舞うことは、できない。

内側にある思いをジッと見つめることは、悩まなくてもいいことでウジウジ悩むことでもあったし、しなくてもいい葛藤をすることでもあった。

あまりに自分を見つめすぎて、
「これでいいの?」と立ち止まってばかり。

そのうち気持ちを飲みこむ癖がついて、恋をしても「あなたのことが好きです」なんてとても言えず、不毛な片思いを何年も繰り返すこともあった。


それでも、「自分を見つめる」ことを、
やめられなかった。

やめてしまえば円滑に進められる物事が、
きっと、たくさんあったはずなのに。


いま、こんな気持ちなんだ。
こんな想いがあるんだ。

確認すればするほど、わたしの心は澄んでいった。その一方で、わたしの孤独は深まっていった。



わたしの名前は、今や、「世界のどこにもない名前」ではなくなった。漢字は違えど、おなじ名前を新聞で見かけたりもする。

もちろん、めずらしくは、ない。

子どもたちの名前は、どんどん趣向を凝らされて読みにくくなり、ありふれた名前を探すほうが難しくなっているのだから。


めずらしい名前じゃなくても、
わたしの名前は誇らしい。

発音しても濁らない、清らかな響きの名前。
これがあるから、自分の想いに正直でいられたんじゃないか。

「なかったことになんか、できない」と、
悩み、葛藤した日々をベースに、今がある。

好きなことを続けていける環境も、
休みたいときに休める場所も。


ともに受け止め合える伴侶と、天真爛漫な娘。
それから、会えずとも心のつながる友もいる。


さて、いまのわたしの内側は、
母がつけてくれた名前のように
澄んでいるだろうか。

相変わらず立ち止まったり、口をつぐんでみたりして、内なる「川のせせらぎ」に、そっと耳を傾けている。

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