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台所にまつわるエトセトラ

日経の日曜版が好きで、毎週楽しみにしています。
芸術や教養コーナーが充実してて、優雅な気持ちになるんですよね。
(身についてるかは別としてですが、笑)

そんな今日の日経の文化面に、詩人の杉本真維子さんのエッセイが掲載されていました。
幼い頃、母親が杉本さん本人に一切家事をさせなかったため、40歳を過ぎるまで包丁を握ったことがなかったというエピソードを交えながら、怒りとも空虚とも言い難い母親への感情やそれらを手放すきっかけについて書かれていました。

彼女の母親は戦後の苦い思い出故に、娘を台所に立たせることを拒否し続けたようですが、ニュアンスは違えど、私の母も娘を台所に立たせるのを好まない人間でした。
母は結婚後、父方の両親と同居し、子供3人を育てていた専業主婦。
慣れない環境の中で、常に周りからアレコレ声をかけられて目まぐるしい毎日だったと思います。
専業主婦だからそこ逃げ場がなく、唯一「自分の場所」としてほっとできたのが台所だったんでしょう。
幼心に、台所に立っている時の母は普段とは違うモードに入ってる気がしていました。

年頃になってからも、手伝おうかと声をかけても「大丈夫」の一言。
しまいには「台所に入ってこられるのが好きじゃないから」とまで言われ、いよいよ私と台所に見えない壁ができるようになりました。
仕事でも、変に手伝ってもらうより、自分でやった方が早いと思うことはよくありますが、あれに似てるんでしょかね、笑。 
台所が逃げ場という意味と、料理は私の仕事というプライドが混ざった母の感情。
本人の口から聞いたことはありませんが、私の汲み取った感情はあながち間違ってはないと思います。

ということで、我が家の台所は母の聖地となってしまい、杉本さん同様、おかげで私もいい歳になっても家事がままならぬ娘に育ってしまいました、笑。
さすがに今は、料理もほかの家事もできるようになりましたが、未だに台所は母の聖地感が残っていて、台所にいることへの後ろめさは抜けないですね。
とはいえ、料理は好きじゃないと言いながらも、手際よく美味しい料理を作る母を見ていると、母のこれまでの気苦労と感謝とが入り交じったよくわからない感情に侵されます。

さて、もうお昼ご飯の時間ですね。
今日は誰もいない日曜日…何を食べようかな。
母の背中を思い出しながら、今日も私は母の聖地にこっそり佇むのでした。

NLPを学び、物の捉え方、表現の仕方で世界の在り方は変わると気づきました。私の言葉で、誰かにそんな気づきを与えられたら…そう願って、言葉を届けます。