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踏み台という抵抗と成長

ヒトは生まれてから

首がすわる
寝返りをうつ
はいはいをする
おすわりをする

というように成長して

親という役割を担っている者は
その成長を一つ一つ喜ぶもの。


わが家で言えば
三男(3)がパジャマのボタンを
一生懸命自分で留めようとする姿など

私の心が乱れていない状態でさえいれば

そんな些細な日常の一コマも
喜びに満ちあふれた瞬間。


だけど、自分が大人になって
何か問題に直面したとき

表面上のことではない
その内側をめくって見つめてみてみれば

自分の中にある
怒りや悲しみ、嘆きや判断が
うずまいていることに気がつく。


例えば、自分はパートナーがほしいのに
ご縁が繋がらないことに悩んでいるとき

大好きなお母さんが
離婚したお父さんに苦労させられていた

という体験を大切にしていると


パートナーに出逢いたい、という自分の望みは

大好きなお母さんの苦労という教訓を裏切る
つまり
大好きなお母さんを踏み台にしてしまう

だから
そんなことはしたくないから

パートナーに出逢えない

という現実をつくりだすことになる。


ここで、誤りが2つある。


1つは、
お母さんは本当に苦労していたのか
ということ。


今、しかないのに

過去の記憶
無数のホログラフィックのうちの一つから
自分の都合のいい1枚を抜きとった記憶

でしかない。

もう1つは、
自分の望みによって
お母さんを踏み台にする

という罪悪感。

自我の大好物の罪悪感。
(あぁ、自我で見ているのだな
と気づくだけでいい)


自分が幸せになること
成長することで

たとえそれが

自分を支えてくれた
大切なひとたちの価値観と
異なっていたり正反対だったとしても

踏みにじることではまったくない。


息子たちで言えば
成長して幸せになるなら

喜んで踏み台になるわ、と思う。
(踏み台になれるようたくましく
というのも必要ない)


だから、あぁそうか
抵抗やストップがかかるときは

自分を支えてくれた人たちも
私が息子たちに思うのと同じなのだ

と思い出したらいい。


優しさをネガティブに使うと
こんなにも粘着性のあるものだけれど

スッと外して
レーンを変えて使っていけばいい。










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