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七月に、五月とわたしと(第二十六話)

【二日後】
『ロマンティストはみなそういうものだが、私もまたずっと前から、自分がいつの日か魔法の土地に行きつくに違いないという信念を漠然と抱いていた。その場にひそむさまざまな秘密を明かしてくれる場所、私に叡智と恍惚をーーおそらくは死をもーー与えてくれる場所に』

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 もちろんそんな都合のいい場所など、どこにもなかった。わたしは丸二日家を空けたことで、母さんにこっぴどく叱られたのだった。色をなして怒る母さんの姿に、しかしわたしは胸が温かくなった。こうした、なんてことない日常のありがたみを、心の底から噛みしめていた。ニマニマと笑い続けるわたしに母さんはさらに怒り、泣き、そして最後は呆れて天をあおいだ。
 どこに行っていたのか、何をしていたのか、しつこく聞かれたけれど、わたしは頑として口を割らなかった。もっとも、本当のことを言ったところで到底、信じてもらえるとは思えなかったけれども。
 ともかくも夏休みはまだ始まったばかりで、わたしのささやかな冒険もまた、いやおうなしにただの思い出になってしまうのだろうか。わたしは胸を痛めた。

【五日後】
 ショータ君は、前回会ったとき以上にカチコチに見えた。わたしは、ショータ君以上にカチコチだったけど。
 告白とその返事には、どんなシチュエーションがふさわしいか? もちろん初体験のわたしには、適当な、あるいは劇的な場所など浮かぶはずもない。さんざん迷ったあげく、結局、浅間神社の境内に呼び出したのだった。この前のシーソーのところだ。
 時刻は、夕方の五時。午前中に連絡して、この時間に約束した。半日のタイムラグは、わたしの心の準備を整えるためのもの。
 でも全然、整っていなかった。
 ドキドキしながら参道の石畳を歩いていると、まだ元気なセミの声が、わんわんとふりそそいでくる。でも境内の木々の梢の上には、ぼってりとした夕立を予感させる入道雲が頭をのぞかせていて、なんとなく水の気配がする。
 二の鳥居を抜け、手水場裏の広場へ。
 近づいていくわたしから、ショータ君は目をそらさなかった。緊張で表情はこわばっているけど、毅然としてもいて、何て言うか、これぞ〈男子〉といった感じ(今どきはそう表現しないのかもしれないけど)。その姿は、今のわたしにはとても眩しく映った。
 わたしたちは、左右のシーソーにそれぞれ腰かけて、並んだ。
「来てくれてありがとう」
 最低限の礼儀として、わたしは自分から声をかけた。いますぐこの場から逃げ出したい気持ちをおさえながら。ショータ君は黙ってうなずいた。
 彼は、タイトなジーンズに、白っぽいシャツと薄い水色のインナーを重ね着していて、足下はスニーカーだった。頭にかぶった明るい色のストローハットがお洒落だ。特別変わった格好じゃないけど、さわやかで、さまになっている。
 ちなみにわたしは、前回よりは少しはマシな格好ーーのつもりだった。といっても〈夏のおしゃれなファッションコーデ〉などとは無縁なので、ロゴTシャツに、去年、栄子に激押しされて買ったふんわりしたシルエットのレーススカートを合わせて、母さんからこっそり借りたヒールサンダルを履いていた。
 彼は約束どおりキチンと口に出してくれた。わたしのことが好きで、つき合いたいと思っていると。返事も今すぐじゃなくていいとまで言ってくれた。
 わたしはーー予期していたはずなのにーーうまく言葉を出せずに、凍りついたままになった。彼と過ごす夏休みは、きっと楽しいだろうと思った。それはショータ君が、同級生の男子がまとっている野卑な空気(クラスの男子よ、ごめん)をほとんど感じさせないからだと思う。大人びているわけでも、落ち着いているわけでもないけど、優しそうな胸の中が透けて見える気がするのだ。ーー修平さんと同じように。
 でも。
 どうしてショータ君じゃダメなんだろう。わたしは、その事実に呆然となった。ヒトは摩訶不思議だ。似ているようでやっぱり違う。ほとんど同じでもやっぱり違う。わたしと【わたし】が違っていたように。
「えっと……」
 しゃべりだしたはいいけど、後が続かず口ごもってしまった。なんか毎度同じことをやらかしている気がする。デジャヴじゃない。進歩してないのだ。ショータ君は地面を見つめて、わたしを待ってくれている。
 そのとき、セミの声が指揮者でもいるみたいに、一斉にやんだ。偶然のタイミングに背中を押されて、わたしはまた話し出す。
「お祭りーーいけなくて、ゴメンなさい」
「……別に、いいよ」
「前の日に、ちょっとショックなことがあったんだ。わたし……」
 目をつむりたいのをこらえて、ショータ君の胸元を必死に見つめた。どうしよう。言いたいことを、想いを、上手く伝えられる気が、まったくしない。でも言わないわけにはいかない。
「わたし、好きな人がいるんだ。学校の子じゃないんだけど……。ショックなことっていうのは、わたし、その人に、告白して、それでね……」
「もう、いいよ」
 ぴしり、とした言葉に、口を噤む。
 ショータ君が、きまりわるそうな感じで顔をしかめ、目をそらした。本人も、自分の声の強さにびっくりしてしまったようだった。
 また、セミが鳴り出した。
「えっと」
「その」
 同時に口を開いたわたしたちは、両方とも、もたもたと話あぐねた。
「ど、どうぞ」
「いえ、どうぞ」
 変にゆずりあったわたしたちの間で、ちょっとだけ空気がゆるむ。相手の顔を見ながら、お互いに照れ笑いを浮かべた。
「そんなわけで」
 どんなわけじゃ。
「わたし、ショータ君とは、つき合えない」
「……」
「あのね、さっき言いかけたのは、わたし、告白したんだけど、返事はもらってないの。うーん。もらうまでもないって言うか……。その人に恋人がいるの、知ってるんだ。だから……」
 ふいに鼻の奥が、ツン、と熱くなった。息を吸い、必死にこらえる。いま涙を見せるわけにはいかない。そこまで卑怯なおんなでいたくない。
「でも……やっぱりその人から、きちんとした返事、聞きたいんだ。で、それを聞いてからショータ君に返事したら、なんかズルい気がして……」
 喋りながら、自分で混乱してきた。なに言ってんだろ、わたし。支離滅裂な話をしてる。一方で、でも、しょうがないか、とも思う。これがわたしなんだ。わたしのことば。わたしの精一杯なんだ。
 ショータ君は、何か言いかけてやめ、ちょっと悲しそうに口を引き結んだ。それから、慎重に、水を張ったグラスを運ぶときみたいに慎重に、上手くいくといいね、と言ってくれた。
 わたしは胸がいっぱいになった。
「ーーありがとう」
 ほかのことばが見当たらない。
 わたしはシーソーから立ち上がって、ショータ君に思い切り頭を下げた。それから踵を返して歩き出した。

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