【子育て】あかんたれ母ちゃんでも子は育つー子育て30年の記録
長男が「高機能広汎性発達障害」と診断されたのは、もう20年以上も前になります。2002年、長男が小学4年生の時でした。
障害者差別解消法が制定され、発達障害者への合理的配慮が明文化されたのが2013年です。
この年からようやく、「発達障害というものがあるらしい」ということが少しづつ知られるようになっていったのでした。
今はASD(自閉スペクトラム症)ということばが正式名称でしょうか。発達凸凹などという言い方も使われていますね。
あの頃は様々な名称がつけられていました。
「高機能広汎性発達障害」「アスペルガー症候群」「高機能自閉症」など。それぞれが違うのか違わないかもよくわかりませんでした。
親でさえそうですから、社会からの理解は言わずもがな。
「自閉症ってひきこもる病気ですよね」、「子の自閉症は母親の愛情不足」などと思っている人が大多数でした。
そもそも「知的障害がない自閉症」というものの存在は一般には知られていませんでした。
今では療育や教育が充実してきています。ASDの人が登場する本や漫画やドラマや映画などもたくさんでき、ASDを含め「発達障害」は、以前よりも格段に知られるようになりました。
2018年、NHKで発達障害キャンペーンが実施された頃から「発達障害」は一気に知られるところとなりました。その盛り上がりが大きかったために、逆に「発達障害だけがどうして特別に取り上げられるのか、わたしもしんどいのに」という思いや、「私も発達障害に当てはまるのではないか」という不安を、少なからぬ人々に抱かせてしまっていることは否めません。
今の社会、誰もが生きにくさを抱えているのですから。
けれども、盛り上がろうと盛り下がろうと(?)、ASDの人の生きづらさは変わりませんし、保護者の方の不安も、20年前とほとんど変わらずにあり続けます。
私は、2023年まで高校や支援学校で教員をしていたのですが、学校で出会うASDの子どもたちやその保護者さんたちの悩みは、20年前の我が子や私の悩みと変わりません。しかしそれは当然のこと。いくらよくできたドラマなどのおかげで障害についての理解ができても、日々の生活の中で押し寄せる感情は、当事者になってみないと実感できない部分がありますから。
我が子が何となく他の子と違うような気がして、日々の生活がなぜかうまくいかず、自分を責める日々が続き、ASDがあると診断されてショックを受けたりホッとしたり、関連の本を読みまくってようやく受け入れた後も心配は尽きず…。
え、あなたも?そうですか~。
私は(も?)子どもが小さいうちはひどいものでした。
我が子を布団の上に投げそうになったこと、理解してくれない夫に馬乗りになって泣きながら殴りかかったこと、アルコールに依存したこと、地球が一気に滅亡したらよいのにと思い詰め、自分が崩壊しそうになったこと、などなどいろいろなことがありました。
私の場合は、書くことでこんがらがった頭の中を整理できることが多いので、日記やエッセイなどいろいろな形で何度か書いてきました。
同じように苦しんでおられる保護者さんたちや先生たちにも読んでいただきたいと思い、発信もしてきました。
けれどもそのたびに、「やめておけばよかった」と頭を抱えることになるのでした。
今回もまたそうなることを覚悟しつつ、懲りずに書いてみようと思います。
あかんたれな母ちゃんが我が子のおかげで幸せになった記録です。
ただ私は、様々な現実を、自分が受け取りたいように受け取ってしまう上に、覚えていたいことしか覚えていないので、この記録は事実とはかけ離れているかもしれません。ですから、お読みいただく際にご注意いただきたいたことが3つあります。
本人の発言らしき部分がありますが、それは私がそのように受け取ったということに過ぎません。本人の意図は別のところにあったかもしれません。
私(母親)の心の揺れや乱れはすべてノンフィクションですが、それ以外はフィクションと考えてください。自分の記憶に自信がありません。
人名や学校名、団体名などはすべて仮名です。
社会の流れと照らし合わせることができるよう、所々に西暦年を入れています。ご参考になさってください。
それではどうぞよろしくお願いします。(あかんたれ母ちゃん)
1 授かった
妊娠がわかったのは暑い夏が過ぎた頃でした。お腹の中の子どもは小さいブドウ一粒ほどの大きさしかないはずなのですが、私は、自分の中に、自分とは違う、自分より大切な命があるという感覚を感じていました。
それまで私は、病気になっても怪我をしても、また死んでしまっても、その時はその時で仕方がないと思っていました。
けれども、「これからは何としても健康でいなければ」と思うようになりました。
つわりが落ち着き、妊娠6か月になる頃、「もしこの子に障害があったらどうしよう」、そんなことが頭をよぎりだしました。そして不安でたまらなくなりました。
障害のある子が生まれたら仕事は続けられないのだろうか、とか、障害がありながら生きるのはその子にとって幸せなのだろうか、とか、考え出すと眠れなくなってしまう程でした。
けれども、お腹の中で育つ我が子とともに生きるうち、いとおしさは次第に膨らみ、そのような不安は薄れていきました。
そして、もし重い障害があっても大事に育てようと決心してからは、不安はすっかりなくなりました。
2 生まれた(1992年)
6月の暑い日の午前5時、元気に誕生しました。
「障害があっても大事に育てる」と覚悟を決めていましたが、実際「五体満足の男の子ですよ」と看護師さんに伝えられた時、私はほっとしていました。
産後の入院中、新米ママの私は、赤ん坊の小さな口に乳首を含ませるにも一苦労。何度挑戦してもうまくいかず、泣きたくなりました。
あまりにも必死になりすぎて、病院に来てくれた義父の前で乳房をボロンと出したままであることにも気づかない程でした。
退院してからもまた大変。その時はそういうものだと思っていましたが、次男が生まれてから、「全然違ったのだ」と気づきました。
息子の秀俊(仮名)は、抱っこをしても「しっくり抱かれる」ということがありません。居心地悪そうに、ぐんっとエビのように背中を反ってしまいます。私はいろいろに抱き方を変えてみるのですが、どうにもうまくいきません。
おっぱいを飲ませ始めると、延々2時間は離しません。口からそっと乳首を抜くと大泣きをします。足りていないのかもしれないと、粉ミルクを哺乳瓶で飲ませてみても飲みません。
夜は1時間も続けて眠りません。私も起きているのか寝ているのかわからない日々が続きます。なのに横でグウスカ寝ている夫。蹴りたくなりました。実際蹴りました。それでも起きない夫。私が乳腺炎になり、39度の高熱を出して苦しんでいるときも起きてくれません。
「諦めた方が楽だ」と思うようになってしまいました。
3 断乳・離乳食の戦
高校教員をしていた私は、秀俊が生後10か月頃になる4月から職場復帰です。ですから、生後8か月頃には断乳していたいと考えていました。
ところが秀俊は哺乳瓶でミルクを飲んでくれません。
困りました。
こんなところで躓くとは思っていませんでした。
私は、何とか哺乳瓶でミルクを飲ませようと、空腹になるのを待ってミルクを飲ませようとしました。
ところが、いくら待っても飲んでくれません。このままでは職場復帰は不可能です。
ある日、「もしかして、味の問題かしら?」と思い、哺乳瓶に母乳を入れて飲ませてみました。すると、あれだけ拒否していたのは何だったのかと思う程、幸せそうに飲むではありませんか。
それからはせっせと母乳を絞っては冷凍しました。乳牛になった気分でした。
生後5か月ぐらいになると離乳食を始める時期です。
粉ミルクを拒否し続けた秀俊が何を食べられるのだろうか。
私は全く自信がありませんでしたが、やってみるしかありません。
初めての離乳食は、「おかゆ」「ほうれんそう」「納豆」にしてみました。それにしても「納豆」とは思い切ったものです。何を考えていたのでしょう、私は。
私は秀俊に拒絶されるだろうと思いながらも、そっとスプーンを口に近づけます。
育児書には、「目を合わせて『はい、ご飯食べようね』と声をかけながら食べさせる」と書いてありましたが、そんなことをしたらスプーンは近づくことさえもできません。秀俊が気づかぬうちに口に入れて、すかさず「ごっくん」させようと考えたのでした。
なんとその作戦は大成功。
「おかゆ」「ほうれんそう」「納豆」を完食したのでした。
ところが翌日から、秀俊は「おかゆ」「ほうれんそう」「納豆」以外のものを受け付けません。
「なんでやねん!ほかの食べ物は毒か!」というか、「なんでおかゆとほうれん草と納豆は食べたの?」
私は考えました。
生まれた頃、なかなかおっぱいが吸えなかった。でも、練習したら吸えるようになった。それからは母乳しか飲まないほど好きになった。
ということは、嫌がっても練習しているうちに好きになるのかも?
私は「バナナのすりつぶし」で挑戦してみました。すぐに作れるので食べなくてもあまりがっかりしなくても済むからです。
1日目、「はいどうぞ、おいしいよ~」。秀俊、口を開けない。
2日目、口に入れる角度を変えて、口元にちょんちょんとしてみる。まるで無視。
3日目、4日目、5日目、6日目…
そして7日目、口に入れて飲みこみました!一度食べるとその後はパクパク食べます。翌日も、その翌日も。思惑通りです。
こうして秀俊は少しずつ食べられるものが増えていきました。なんせ7日に一品です。時間がかかります。
そうそう、みそ汁を克服したときには爆発的に食べられるものが増えました。みそ汁に入れるとほぼ何でも食べられるようになったからです。
「一汁一菜でええやん」土井善晴先生はすばらしい。
3歳になった秀俊が食べられるようになったもの。
ごはん、のり、から揚げ、焼き魚、煮魚。汁物に入った細かく切った野菜。
〇〇乳業の牛乳(違いの分かる男です)。
カリカリにしたもの(細く切って焼いた12枚切りの食パン、のような)。
ずいぶん食べられるようになりました。
4 父母と義父母も息子の親でした
そして4月、私は職場に復帰しました。保育所に入れるために断乳や離乳食など少し無理をしていたのですが、結局、私たち夫婦の両親4人が秀俊の世話をしてくれることになりました。
子どもを保育所に預けるのはかわいそうだ、という当時の考えでそうしてくれたのですが、私も、秀俊が保育所で過ごせるとは思えませんでしたので、本当にホッとしました。
祖父母は最高の保護者であり、最新の療育者でもありました。
その頃は療育のための施設は完備されていませんでしたが、もしそのような施設があれば、祖父母がやってくれていたようなことをしていたでしょう。
たとえば電車の大好きな秀俊のために、電車の本を一緒に見たり、電車のパズルをやってみたり、電車の模型を作ってみたり、実際にいろいろな電車に乗りに行ったり。
近所の同年代の子どもたちのグループに入って一緒に遊んでくれたりもしました。
祖父母との約束事は、「病気の時は親が仕事を休んで世話をする」「ご飯は親が作る」。それは今思うとありがたい約束事だったと思います。
私を「母ちゃん」でいさせてくれたのですから。ただ、その約束事も守れないことが多々ありました。
5 乳幼児期は心配だらけ
秀俊は、一歳を過ぎても話す気配も歩く気配もありませんでした。
「ママだよ~。マーマ。」「ほら、パーパ」「ブッブー、きたねえ」。
絶えず話しかけるのですが、泣き声だけしか聞けません。ことばになる前の、「喃語」らしいものもありません。私の両親などは、「男の子は3歳までしゃべらない子もいるんだから心配はいらない」と言いますが…。やはり焦ります。
また、歩くどころかハイハイもしません。もう本当に焦ります。
私は分厚い育児書を隅から隅まで読みました。最後に『赤ちゃんの病気』の項目があり、その中に半ページほどの小さなスペースで「小児自閉症」について書いてある部分がありました。
それは、秀俊の状態にぴったり当てはまりました。けれども、そのことを誰にも相談することができませんでした。今から思うと、身近な人たちに心配をかけてはいけない、という気持ちが強すぎたのでしょう。
1歳半を過ぎた頃、秀俊はいきなり伝い歩きを始め、間もなく歩き始めました。
歩き始めた頃、ことばも出始めました。
初めに出た言葉は、「ママ」とか「パパ」ではなく、「ぽっぽっぽ~、は~とぽっぽ~」でした。
上手に歩けるようになると、今度はコマのようにぐるぐる回り始めました。
秀俊が成長してから「なぜぐるぐる回るの?」と聞いてみたことがあります。秀俊は「そうすると落ち着くから」と言っていました。
回っているとき以外はいろいろなものを並べました。トランプ、ミニカー、はがき、などなど。
私が話しかけても聞いている風はありません。しかたがないので私も一緒に回ったり、一緒に並べたりしました。そうしていると一緒に遊んでいる気がしたのです。
三歳になると、問いかけにことばで答えるようになりました。
「これだれ?」「かあちゃん」、
「はとぽっぽ歌って」「ぽっぽっぽ~」。
私はもうすぐ「普通の子」になるに違いない、と自分に言い聞かせていました。けれども、近所の同じぐらいの年齢の子どもたちを見ていると、やはり様子が違います。これから先、我が子がみんなと一緒にやっていける気がしませんでした。
そんな秀俊も3歳から幼稚園に入園しました。
秀俊は、他の子が楽しそうにやっていること、たとえば、ボール遊びや、お絵かきや、追いかけっこなどをしたがらず、ひとりで砂場の砂を触ったり、滑り台やブランコで遊んだりしていました。運動会の時などは、本当に嫌そうな表情をしていました。
秀俊が大きくなってから幼稚園時代のことを尋ねてみたところ、「幼稚園時代に戻るか、死ぬか、どちらか選べと言われたら死ぬ方を選ぶ」と言っていました。
6 小学校時代(1998年~)
辛かった幼稚園を卒園し、小学校に入学。小学校低学年時代は比較的落ち着いていたのではないかと思います。
ただ、手先や体を動かすことや絵を描くことが苦手だったり、行事になると体調を崩したり、授業時間よりも休み時間が嫌いだったり、給食が苦手だったり、そういうことはありました。
小学三年生になったある日のこと。私の職場に、秀俊の通う小学校から電話がかかってきました。
「秀俊くんがいなくなりました!現在捜索中です!詳しいことは後で説明しますから来てください!」
「え?はい!すぐ行きます!」
私が心臓をバクバクさせながら帰る準備をしていると、再び学校から「見つかりました」の連絡。
ホッとしましたが、とりあえず急いで仕事を終わらせて、学校に向かいました。
担任の先生にお話しを伺うと、このように教えてくださいました。
私がご迷惑をおかけしたことを謝ると、担任の先生はおっしゃいました。
「実はね、私、先日研修会があって、その時に自閉症について勉強したんです。もしかしたら秀俊くん、自閉症かもしれない、と思って…。私、その時の講師の先生の連絡先を聞いているので、一度相談されませんか?」
私の頭の中にはずっと育児書で見た「自閉症」ということばがありました。
けれども蓋をし続けていたのでした。
私はようやく藁を掴めたような気持ちでした。早速担任の先生に仲介をお願いし、「講師の先生」のところに相談に行くことになりました。
発達検査を受ける
「講師の先生」は、その頃ようやく始まった、知的障害のないタイプの発達障害の子どもたちのための「ことばの教室」を主宰されていた山田先生でした。
山田先生は時間をかけて丁寧に秀俊のアセスメントしてくださり、親の私の話も聞いてくださいました。
アセスメントの2週間後、山田先生は私に話してくださいました。
私は、涙を止めることができなくなりました。
秀俊が「発達障害」と告げられたショックは確かにありました。けれどもそれだけが涙の理由ではありませんでした。
秀俊が他の子と違うのは、自分の責任だけではなかったのかもしれない、わかってもらえる人がいた、そういう思いがあふれて、涙が止まらなくなったのでした。
その時から少しずつ、私は秀俊と自分自身とを「大目に見る」ことができるようになっていきました。
他の子と違っていてもいい。秀俊が幸せならそれでいい、と心から思えました。
そして、仕事の上でも「障害」ということにもっとまっすぐに取り組みたいと思い、高等学校から特別支援学校への転勤の希望を出しました。
7 本人に検査結果をどう伝える?
私は秀俊の障害を知ることで、以前よりも元気になれました。けれども本人にはどう伝えるのが良いのか、私は考えました。
考えた末、できるだけ軽い調子で伝えることにしました。
「ねぇねぇ、こないだの検査の結果出てるよ~。見る?」と、「ごはんできてるよ~」と同じぐらい軽い調子で秀俊を呼びました。
秀俊は、検査結果を見て言いました。
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