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札幌聾学校訴訟 訴え棄却と『ヒゲの校長』のこと

日本手話で教えてもらえなかったとして、札幌聾学校の児童が北海道に賠償を求めた裁判の判決があった。訴えは棄却された。

札幌地裁の判決は、そっけないものだった。
日本手話での教育を具体的に保障する法律はなく、日本語対応手話などの他の表現手段をあわせれば「一定水準」の授業はできる、という。


昨年、『ヒゲの校長』という映画を観る機会があった。

『ヒゲの校長』は、手話を守り抜いた大阪市立聾学校(現:大阪府立中央聴覚支援学校)の高橋 潔 校長と教員たち、そしてご家族や地域の方々の奮闘が描かれた自主制作映画である。

1878年(明治11年)、京都盲唖院が設立された。
日本初の障がいのある子どもたちのための学校である。
京都盲唖院では「手話」で教育が行われていた。

大正末期、聾の子どもたちへの教育に「口話法」が導入され、「手話」を禁じようとした時期があった。
「口話法」の鍛錬のためには「手話」が邪魔になる、と考えられたからだ。

そのような時代に、高橋潔校長と彼を支える教員たちは、「適性教育」を主張する。
「適性教育」とは、「口話法」が合う生徒には「口話法」、「手話法」が合う生徒には「手話法」、併用が良い生徒には併用、というようにひとりひとりの能力や適性に合った教育である。

耳が聞こえない人が「口話」を習得するためには、凄まじい訓練が必要である。日本人が英会話を習得するのとはワケが違う。

確かに「口話」ができれば、耳の聞こえない人も、(耳の聞こえる人たちが多数派である)この社会で生きやすくなるだろう。
しかし、そもそもどうして、少数派が多数派に合わせるために凄まじい訓練をしなければならないのか?手話ならば自由に通じ合えるのに。


私が高校教員時代に関わった、中国から来た生徒たちは、日本で生きるために懸命に日本語の勉強をし、教室では日本語で会話をしていた。
我々教員も日本人の生徒たちも、「それで何の問題もない」と感じていた。

しかし彼らが同郷の仲間たちと母国語で会話をしている様子を見たとき、そうではないのだと気がついた。
彼らは教室での彼らと全く違う、自信に満ちた表情をしていたのだ。

自閉症や知的障がいのある子どもたちとのコミュニケーションについても同様。
コミュニケーションの手段はそれぞれに違っていて、教員は「この子とはどんな手段でコミュニケーションが取れるだろうか」ということを模索する。

耳の聞こえない人への手話による教育を禁止するということは、母語による教育を禁止するということと同義であり、自由で豊かなコミュニケーションを奪うということに他ならない。


札幌聾学校の児童の「日本手話」で教育を受けたいという願いはそっけなく棄却された。

確かに「日本語対応手話」や「口話法」その他、さまざまなICT技術を使ってある一定水準の教育はできるかもしれない。

しかし、自由で豊かなコミュニケーションの機会が奪われていることは事実だと思う。

中国から来た生徒たちが、同胞の仲間たちと盛り上げっているときの、自信に満ちた表情を思い出すのである。






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