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このお盆休み中は、YouTubeで歴史の動画を聴いていた。コテンラジオをずっと聴きつづけた。 今は第一次世界大戦で戦争前のフェーズを聴いている。戦争が起こる背景がもう複雑すぎる。少なくとも誰も戦争をしたい思っていなかった。が、結果として戦死者2,000万を出す戦争となってしまった。 歴史はとても複雑だなと思った。さまざまな要因がミルフィーユ状に重なっていて、想いが捻じれて、ミスコミュニケーションが起こり、いつしか引き返すことができないフェーズに入ってしまう。 今の時代か
落語は不思議な芸だと思う。 面白い噺には前のめりにさせられる。上手い噺家さんだと、さらに前のめりにされられてしまう。 この噺の展開はどうなるんやろう、と興味わくわくして入り込んでしまうのです。 が、物語の中の噺だから、おもしろおかしく観ていられるのだけど、ふと、実はこの噺って自分のことだと気づかされる瞬間があるのです。 えっ、これって、ワシのことかい!って、他人事の噺が自分事に転換される。こんな瞬間をよく味わされるのです。そのたびに、落語にしてやられた、他人事やと思っ
先日、社交ダンスをテーマにしたアニメを視聴した。主人公やヒロインが感情をぶつけ合いながら稽古し、ステージで感情を表に出してダンスに打ち込む姿を観て、心を動かされた。感動したし笑いもした。 登場人物の感情にいい意味で引っ張られ、自分の感情にも影響されるいいアニメだった。 落語では、作中の登場人物は聴き手の脳内にいる。視覚情報には登場人物はいない。視ているのは演者であって登場人物ではない。 このことを演者は理解しておく必要がありそうだ。つい登場人物を表現してしまう、しかも全
以前、「息をのむ」というテーマを2本書いた。 こっそりと息をのむ稽古をしている。息を意識してのむことはむつかしい。しかし、こっそり稽古していると気づくことがある。 「ひとつは、息をのめたとき、相手の話が跳ねること」 「もうひとつは、自分の中でエネルギーが起こること」 書いていて、まだ整理はできていないのだけども、息をのむことにより内側と外側に変化があることは間違いないようだ。 言語化がもう少しできればいいのだけども、いまはこれまでか。 息をのむ研究を引き続きおこな
今回、落語発表会までの稽古中から発表会まで、TA商事様の企画で自律神経の計測しました。文華師匠と塾生のみなさんが対象で、発表会当日はご来場のお客様にも計測のご協力をいただきました。 文華師匠、塾生は発表会本番前と終演後に計測しました。TA商事の担当者さんによると、興味深いデータがとれたそうです。特に文華師匠の計測値は落語を演じるそのものにとてつもなく自律神経を整える作用がみられた。 ぼくは、本番前でも終演後でも極端に変わらず【ご機嫌さん状態】であったそうです。本番前、緊張
落語発表会まであと4日。やばい、不安になってきた。稽古稽古。 先日の稽古、自律神経の状態を計測した。(自律神経は計測できます) 稽古前と稽古後の2回計測するのですが、緊張からか稽古前はうまく計測できなかったのですが、稽古後に計測すると、超ご機嫌さん状態であった。 計測くださった方の話によると笑ってしまうほどのご機嫌さん状態なのだそうです。これまで計測したほとんどがご機嫌さんでした。 ご機嫌で噺に入るから、聴き手も楽しくなってくるようです。楽しくなってくると噺に没入して
僕は落語の世界観に魅せられている。理由のひとつに誰も傷つかないことが挙げられる。落語を聴いているとその世界の中に自分を観ることがある。その世界にはアホなやつは大勢いるが、悪いやつはひとりもいない。いるのかもしれないが、結果、まわりに害を与えることがない。与えているのかもしれないが、誰も傷ついていないと捉えている。 現実から落語を観たとき、登場する人物それぞれみんなに愛着が湧いてくる。やっぱり悪いやつは一人もいないように思える。誰も傷つかない落語の世界観に僕は魅せられている。
落語には幸せを向上させる力が働いていると思う。寄席から出た時に「ええ噺聴いたな~」って感じて小屋を後にすることがあります。そのとき、幸せ指数が上がっているように思うのです。 自律神経を計測する機械があるのですが、自律神経の数値を幸せ指数と見立てるととても分かりやすい感じがします。 落語塾で指導いただいてる桂文華師匠は、稽古前にどんだけ自律神経が整ってなくても、稽古終了後には必ず【ご機嫌さん状態】となっています。 このことから落語に携わっていると幸せ指数が向上しているとい
先日、幸せ指数は測れるという記事を書きました。 ふと、幸せの要素ってなんだろうと考えました。自分の中に探そうとすると幸せがぼやけてしまい、いまいちわからない。 落語の世界を覗いていると、幸せな気分となっていることが多い気がする。幸せなことを意識してはいないけれど、自然にいざなわれているような。 落語の世界から、幸せな気分は保ったまま、自分の世界に戻ると【ご機嫌さん】となっている。といった公式が成り立っていそう。 落語の世界にある幸せを見つけ、自分の世界に持ち込んでみる
昨日は、アイデアばっかで一向にやらないというネタを書いた 一方で、始めるとやり続ける傾向がある。落語塾の主催は8年続けている。また仕事で担当しているニュースレターは11年発行している。このブログも毎日投稿しつづけている。(270日目くらいかな) いずれにしても、面倒なことは多い。落語塾だと、メンバー集め、発表会の会場や稽古場の手配、連絡網、集金、etc。やることが多い。ニュースレターやブログも落語塾ほどではないにしても段取りが必要です。 これらは正直、いまでも、面倒だな
昨日はなぜやらないのかを自己分析してみた。 簡単なことでも、やったことないことは、面倒でやらないというのが結論っぽい。 やったことないというのは、先がわからないから、わからないことはやりたくないという気持ちが働いているのではないかと分析した。 では、やったことないことでも、分解して細かく要素化すれば、中にはやったことあることがあるのではないか。やったことあることであれば、やってしまうのではなかろうか、と思った。 細かく要素化すれば、落語塾での経験が活かせることがある。
「面白いところを見つけて笑う」 落語の楽しみ方の最高峰だと思う。 文華師匠の鉄板のまくらの言葉である。名言だわコレ。 頭から尻尾までおもんない落語なんてない。もしあるとしたら聴き手が聞いていないだけだと思う。 全体的におもんないという評価はあるかもしれない。けれども、なにかひっかかる面白さはあるはずだ。 それは、仕草かもしれない。言い方かもしれない。とちって慌ててる姿かもしれない。目を凝らせば、面白いことは必ずあるはずなのだ。 でないと、なにをしに寄席にきたのかが
落語を楽しむ極意は面白いところを見つけて笑うことである。 どこか必ず面白いところはあるのだ。面白いところとは、落語に限らずであると考えている。 普段の生活や仕事の中においても面白いところは必ずあるといっていい。 一見つまんなさそうな事柄であっても、一部分を切り取ると面白く映る情景はあると信じている。 情景が見つかれば、こちらのものだ。面白いところをを拡張したり、編集したりして、解釈の幅をひろげてることができる。そうなれば、一部分しか面白くなかったとしても、全体が面白くす
面白いところを見つけると人に言いたくなりませんか。 少なくとも僕はそうです。 「ちょっと聞いてんか、これこれこういうところオモロない?」 「ここんとこ、めっちゃアツいやん~」 「おれ、めっちゃツボやわ」 面白いと掴んだ感覚が他の方と共有できる幸せ感といったらないですね。 「そこ、わかるの?」 「そうそう、それそれ!」 或る意味、感覚の共有をしたいがために面白いところを見つける行為を果たしているといってもいいかもしれない。 今日は、文華師匠の寄席に行きます。面白いところ