この感情はいったい誰のものか
先日、社交ダンスをテーマにしたアニメを視聴した。主人公やヒロインが感情をぶつけ合いながら稽古し、ステージで感情を表に出してダンスに打ち込む姿を観て、心を動かされた。感動したし笑いもした。
登場人物の感情にいい意味で引っ張られ、自分の感情にも影響されるいいアニメだった。
落語では、作中の登場人物は聴き手の脳内にいる。視覚情報には登場人物はいない。視ているのは演者であって登場人物ではない。
このことを演者は理解しておく必要がありそうだ。つい登場人物を表現してしまう、しかも全力で。
登場人物は聴き手の脳内にあると先に書いた。そのことが正しければ、聴き手の中にいる登場人物の感情とは、いったい誰の感情なのだろうか。と書きながら思った。
少なくとも、演者の感情ではないことは確かか。とすれば、演者が出す感情は聴き手にとっては邪魔になってしまうといえる。
文華師匠からの指導中に「かなしみを押し殺す」というキーワードがあり、メモをとっていた。
「かなしみを押し殺す」にヒントがあるように思う。また考察してみたい。
もし刺さる根多でしたら、木戸銭歓迎です。寄席代にして、さらなる刺さる根多を仕入れてきます。