見出し画像

最近の私のテーマは「自然」「日常」「静寂」

最近の私の趣向は
「自然」「日常」「静寂」に
向いてきている気がします。

それは紹介している本や
音楽にも表れているかもしれません。

国木田独歩が描いた「自然」に
妙に心が惹かれたり、

奥田英朗が創作する「日常」が
妙に心に沁みたり、

ECM の静かな音楽に
耳を澄ませたり。

若い頃には気が付かなかった
魅力がそこにはあります。

若い頃はもっと非日常的なものが
好きでしたし、
音楽ももっと激しいものばかり
聴いていた気がするんですよね。

どうして自分がこんな風に
変化したのかは、
はっきりとはわかりませんが、

歳を重ねてきて
これらが尊いものであることが
わかったのかもしれません。

「自然」も「日常」も「静寂」も
若いうちは「平凡」なものに
感じていましたし、
退屈なものと思っていたんですね。

でも、実際には違うんです。

「自然」はあっという間に
身の回りからなくなり、

「日常」も平穏無事であればこそ、
当たり前に感じられますが、
いつもそれが保たれるとは
限りません。

「静寂」もまた同じことです。

若い頃は「ない」ということは、
「なにもない」ことだと
思っていました。

これもまた違っていて、
「ない」という状態も
また「ある」ことなんですね。

何やら哲学っぽい物言いに
なってきましたが、

「ない」という状態が
「ある」と思うと、
この世は無限に
「ある」状態な気がするんです。

若いうちはこういうことが
まったく見えず、
「ない」状態は「退屈」と同義ですね。

でも、実際には
まったく「ない」ことは
ないのです。

私の生活には「なにもない」
と思っていても、

そこには「ない」状態がもたらす
「自然」「日常」「静寂」が
あるんですよね。

自分に「友達」がいない
と思っていたら、
「自分」という「友達」がいた
みたいな感じでしょうか。

ふわふわとした言い方で、
よくわからないかもしれませんが、

歳を重ねてみて、
そんなことを実感しつつあります。

あれも「ない」これも「ない」
と嘆いてばかりきましたが、

そこには尊い「自然」があり、
「日常」があり、
「静寂」がありました。

それがいかに尊いことか
わかってくると、
人生への向き合い方も
変わってくる気がします。

サポートしていただけるなら、いただいた資金は記事を書くために使わせていただきます。