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身体で理解すること(その2)

自然科学について勉強をする上で、知識を蓄えることはもちろん大事です。「なんかわからんけどあれ」では先生から大目玉を喰うことでしょう。その一方で、スポーツで言えば筋肉や運動神経に相当するものを養うことも、勉強をする上で大事ではないか。身体で理解する、脳の神経回路を鍛える、知恵を育てる、等とも言えます。前回は英語や数学の例について考えてみました。今回は物理学と生物学(環境学)について。

物理学もスポーツ?

英語、数学ときたら次は物理ではどうでしょうか?実は、物理学こそ身体を通した理解が不可欠な学問です。ニュートン力学の公式である、

力=質量×加速度

初めて見た時は面食らったのではないでしょうか?力という考え方はウルトラマンや漫画によって日常生活でありふれていますが、実際はだれも力など見たことありません。それを重さと速さで数値化するなんて!それを繰り返すと身の回りの物体に矢印が見えるようになります(筆者の予想)。自分の身のすぐ近くを通る車や電車の矢印を考えると、怖くなってしまいそうです。なんといってもヘビー級ボクサーのパンチを遥かに上回る力なのです。恐ろしい。

そして、現代物理学の代表格である、相対性理論や量子力学ではどうでしょうか。「空間が縮む」「ミクロな世界で量子は複数の場所で同時に存在する」などなど、これらの日常を超えた話を理解するためには、自分の感覚を鍛えるしか方法はありません。面白い本があるので引用します。

ここで一つ持論を述べさせてください。それは直感は育むものということです。(中略)これまで分からなかったボールを投げるという感覚が(脳の)投球回路が構築されたことを境に直感的にわかるようになる。これもまた正しい経験の積み重ねによって得られる能力です。このように直感が働くためには土台となる回路が必要で、回路を作るには正しい方向に積み重ねた経験が不可欠です。(中略)量子を理解したければどうしたらよいか?ここまえでくれば答えは一つです。腑に落ちるまで正しい経験をすべし。 「量子ってなんだろう」(松浦壮さん)

なんとマッチョな意見でしょうか。正しい経験というのは、ここでは、実際に計算してみたり、量子について書かれた文章を読み、現実の物理現象に思いを馳せることを意味します。これを繰り返すのは、身体を通した理解に他ならない。

このように身体を通した理解が大事だと知っていたら、もしかすると「分からないから諦める」ということも少なくなるかもしれません。

筋肉が鍛えられなければ相撲はできないように、あなたはまだヒョロガリの針金人間だから量子力学を理解できないだけ。物理マッチョになるまで地道にトレーニングせよ。

と言われたら救われる気がします。

生物学もスポーツ?

もう繰り返しが過ぎるかもしれませんが、僕の専門分野である生物学でも身体を通した理解は、とても大事で、自然に対する直感は生物学の必須事項です。これだけ繰り返したくなるほど大事で、でも忘れられることも多いのです。生物学と括るのは若干違和感がありますが、ここでは環境問題について考えてみます。

環境問題が生じる根本的な原因はなんでしょうか?いろんな見方ができると思いますが、ここでは「人の生活と環境が切り離される」ということに焦点を当てたいと思います。人間社会の最大の強みの一つに、「社会の分業」というものがあります。人は社会で必要なことを分業することで効率化し、生産性をあげてきました。食料生産を一部の人が賄うことで、工芸品を作ったり宗教ができたりと、いろんな文化が発達してきたとも言えるかもしれません。しかし、この社会の分業が現代の環境問題を引き起こす問題になります。

社会の分業が進むと、多くの人は自然と直接に関わる必要がなくなります。例えば、過去にアメリカでは、奴隷制が浸透したことで土地所有者が農地のことを考えなくなり土壌劣化が進行したと言われています。土壌の肥沃度を超える農業が行われ、作物が育ちにくくなってしまった。土地を大事にする農家の方々であれば信じられないことでしょう。

現代では、どうでしょうか。ほとんどの人が、都市に住んでいて環境から全く切り離された生活をしているという状態です。虫や菌類は気持ち悪い、土は汚いという感覚が一般的なのではないでしょうか。都会にすむ友人と森を歩いていた時、たくさんの木が立ち枯れして白くなっている場所に出くわし、それに驚いていると、「なんでその木が死んでいるとわかるの?」と聞かれ、さらに驚く、という経験をしました。死というのは厳密に考えると難しい部分もあると思うのですが、木が死んでいるのが直感的にわかるような場合でも、そのことが彼と共有できていないことに気づきました。

彼の感覚が未熟だと言いたいわけではないです。僕自身も自然については知らないことがほとんどですし(昆虫の名前など、まだまださっぱりです)、人の感覚は周りの環境に強く左右されるのが当然で、彼は僕の持っていない優れた感覚を多く持っています。しかし、自然と感覚があまりに切り離されると、自然のことを大切にする、という考えも忘れてしまう可能性があると僕は思います。自然を壊してもいいと思う、ということではなく、自然を破壊していることに気づかなくなるということです。

川に水銀を流したり、水源地の森を切り開いてゴルフ場にしてしまったりと、悪気なく自然環境と生活基盤を破壊するのが人間です。ジャレドダイアモンド博士は、著書「文明崩壊」で、江戸時代の日本を持続的な社会の例として取り上げました。しかし、自然を持続的に利用した知識と知恵に触れる機会が失われているので、当時のアイデアが継承されているかどうか疑問です。

環境が守られるためには、自然環境に対する直感(自然についての知識と経験)がなくてはならないのではないか、というのが僕の仮説です。本項のテーマである身体で理解することが必要です。つい環境を破壊する計画を立ててしまうことはあると思います。もしその時に「それはおかしいのでは?」と誰かが感じて意見し、計画を修正することができたら、環境問題をなくすことも夢ではないでしょう。このような話ばかりではなく、環境をよくするために必要な手入れは(例えば、街路樹の落ち葉かきや竹林の管理などなど)、実は楽しいことでもあると思います。楽しんで当たり前のことをしていたら、環境をよくしてしまっていた!となればよいですね。

まとめ

何かを勉強するときには、知識だけでなく身体を通して理解する、ということが必ず必要になります。そのためにはどうしたって時間がかかります。

すぐにわかろうとするな。肩の力を抜いて楽しんで経験を積め。

これが勉強なのかもしれません。大学を含めた学校の教育や教科書も、知識だけでなく、この点を伝授できたら、より面白くなるかもしれません。

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