絶望のススメ
子どもはみんな競争が大好きである
勝つことは気持ちがいい
ところが幸福論では競争の先に幸福はないとされる
競争の先にあるのは敗北か、たとえ勝負に勝ったとしても次また負けるのではないか?という不安だ
僕は人生で何度か絶望を味わったことがある
最初の絶望は高校だった
宮崎県の公立中学に通っていた僕は試験の成績で1位以外をほとんど取ったことがなかった
ごく稀に2位と3位になったことはあったが4位以下はなかったし、基本的にそこそこの努力で1番になれた
進学校である高校に進んだ時に血の滲むような努力をして学年で8位だった
その時に自分の努力の限界は学年で6位くらいまで(順位を上げられてあと2つくらい)だなと悟った
上位5人くらいの実力はもう自分の努力ではどうしようもないくらい頭の出来が違った
あぁ、自分はこの高校で1番には決してなれないと気づいた時にものすごい絶望感に襲われた
1番になれないのならなんで勉強するんだろう?とすら考えていたことがあった
ところが、絶望することによって純粋に勉強そのものを楽しむことができるようになった
どうせ勝てないのだから勝つために勉強することなんて無駄で、勉強そのものを楽しもうとするようになった
それが結果としてよかった
順位を一切気にしなかったか?というと嘘になるが順位よりも自分の理解度に関心が向くようになった
思うに競争環境では「勝てそう」と思える時は勝利に意識が向くが、「あ、どうやら負けそうだ」となる時人は
・克服
・逃避
・絶望
の3種類の反応になるのではないか
・克服
どうにかしてぶつかった壁を乗り越えようと試行錯誤すること
この反応は「もしかしたらいけるかも」という淡い希望がなければなかなか起こらない
・逃避
基本的に負けそうと思った時はそもそも戦わないという方針をとることが多い
やる前から自分はやりたくないから、他にすることがあるから、興味ないからといろんな理由をつけて競争そのものから外れる
・絶望
勝てない自分を受け入れること
どれだけ努力しても無理なのだと悟ってしまう
この絶望はある程度の量自分が努力している領域でないと起こらない
努力し切っているからこそ、圧倒的な実力を持つ人との埋めようのない差に明確に気づくことができる
克服や逃避ではずっと同じゲームの中にいるが、絶望するとゲームそのものが変わる
高校生の時の僕の勉強は
点数で周りに勝つための勉強というゲームから
知的好奇心に従い物事の理解を深めるゲームへと変わった
放っておくといつのまにか周りと比較してしまい競争のゲームに巻き込まれてしまう世の中で、この競争のゲームから抜け出し自分のフィールドで生きていくには絶望が必要なのかもしれない
振り返ってみると高校の勉強をきっかけに部活でも、大学でも、社会人になっても
何度かこの絶望を味わうことができた
絶望は人生のゲームを変えるチャンスなのかもしれないとメキシコの夜行バスの中でふと考えたという話でした
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