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私の履歴書#11 高校教諭

(2020年8月2日日曜日)


 修士論文に苦悩する一方で、就職口も考えねばならなかった。選択肢は大学院博士後期課程進学か学校教員か2つに1つ(民間企業就職は数々の経験から無理だと判断した)。大学院博士後期課程進学を薦めてくださる先生もいたが、モロッコカーペット事件(私の履歴書#9「モロッコ大事件」に詳細)が重くのしかかった。親に110万円の借金があるのだ。さらに、後に触れるが、この時は「国際結婚問題」で親と新たなバトルを繰り広げていた(笑)。「勘当だ!」と父親から言われるほどのバトル。博士課程進学などとは口が裂けても言えるなかった。

 ということで、学校教員の道を志した。ただし、いやいやの選択では決してない。大学院で取り組む研究を教育現場で早く試してみたいという気持ちがあった。夏に新潟県立高校の教員採用試験を受けて無事合格。新潟市内の高校教諭として晴れて社会人なった。

 赴任前の新任者オリエンテーションで初めて高校の門をくぐり校長先生・教頭先生と面談した。しかし、意気揚々としていた私にお二人の口から発せられるのは微妙な言い回しばかり。「いろいろと苦労をかけることになるが」「ここでも経験を踏み台に」「こういう学校だからやり手のベテラン教員を希望したんだが・・・」

 そして帰り際、校長先生に小さな声で言われた。「『ベテランの代わりに大学院出の新任を送る』と教育委員会の担当者に言われた。期待しているよ。若さで何とか乗り切ってほしい。」覚悟を固めるしかなかった。帰宅後実家の母に電話をしてその日の出来事を話した。母は涙を流した。「あんなに勉強を頑張っていたのにこの仕打ちは何・・・?」教育相談員だったから実情をなんとなく知っていたのだろう。

 しかし僕の気持ちは全くめげていなかった。むしろ胸に一つのチャレンジを抱いていた。

 4月の始業式後に新任教員紹介でステージに立った。生徒たちの群れを見て思わず口からでた一言「うわ、なつかしい」僕自身が六日町で過ごした中学時代の雰囲気に随分と似ていた。一筋縄ではいかなそうな生徒たち・・・(ばかりではないが)。新たな嵐の始まりであった。

 当時、「研究者の卵」気分でいた僕は、生徒を実験材料としようと企んでいた。具体的には英語の授業内でのグループ英語活動を録音し、そこから学習者間の英会話の特徴を探ることを意図していた。それをまとめてさらに論文を発表していつか世界を舞台に!録音用にポケットテープレコーダー8台も自費購入して臨んだ。

 しかし、録音された音声を聞いて愕然とした。英語練習のはずなのに、英語のえの字も聞こえてこないのだ! 彼らは、授業の50分間の全ての時間を、僕が教壇にいることなど眼中にもないかのようにひたすら日本語で雑談していた。弁当を食べている生徒、マンガを読んでいる生徒。挙句の果てには、授業途中で帰宅しようとする生徒に注意して胸ぐらを掴まれて凍り付いてしまった。米山先生の元でみっちり鍛えられた成果を発揮すべく万全の準備で臨んだ授業は、無残にもずたずたに切り刻まれた。

 一方で、その年の9月に大学英語教育学会で大学院での研究成果を発表することが決まっており、仕事が終わった深夜と早朝にその作業。さらには査読付き学会誌にも掲載された。半学級崩壊状態の学校で疲弊した後で、研究モードに切り替えるのが如何に難しい作業であったことか。我ながら当時の僕自身のエネルギーには脱帽する。ただし、授業すら成立させることができていないのに教育学会で発表し、論文を書いていること自分自身に対する違和感が、日を追うごとに大きくなっていくのを抑えることができなかった。

 その違和感は、あることをきっかけに沸点に達してしまった。ここからが僕の僕らしさともいえる。ある学会で発表した後、何と数人の大学の先生が名刺を持ってやってきて来た。雑談の後、「もう一、二本論文書いたらご連絡ください。」研究者への誘いだった。この誘いがどんなに贅沢なものであるか、今ではよくわかるが、当時の僕の脳は違う解釈をした。「授業成立させることができない人間が大学の研究者になどなる資格などない。まずは目の前の生徒をしっかり教えることができるようにならねば。」この学会を境に、僕は大学院時代からの研究テーマを捨て、目の前の生徒に集中することになった。「一度テーマから離れると戻ってこれなくなるよ」と言う周囲の警告はガン無視した。

 「出直す」とは正にこのことを言うのだろう。自分の授業を成立させることだけを目標に、できることは何でもやった。本も論文も読んだし東京の学会にも何度も足を運んだ。しかし、中々答えは見つからない。そんな時にきっかけをくださったのはまたしても、恩師米山先生であった。

 あるときに先生の研究室を訪問し、生徒のやる気のなさを愚痴った。するといきなりあの「鬼顔」が復活。「やる気のない生徒をやる気にさせるのがプロの役目ではないのか。お前は何のために金をもらっているんだ。お前みたいな情けないやつは辞めてしまった方が生徒のためだ!」といって“紙束”を僕の目の前に叩きつけた。その“紙束”こそ、僕のその後の人生を形作ることとなる、あるハンガリー人研究者の英語論文だった。

 「動機づけストラテジー」聞きなれないタイトルだったが、読み始めて思わず引き込まれた。そこには、やる気のでない生徒をやる気にさせるテクニックが次から次へと紹介されていた。読んでいて身震いがするほどの感動を覚えた。読み終わった僕は思わず机を強く叩いて自分をけなした。

「こんなにたくさんの戦略があるのに、僕は何一つ試していない!畜生、なにをやっているんだ、このバカ!」

 一度具体的にやることが決まれば話が早いのが僕である。そこからは「動機づけ」のことばかりを考えた。生徒を学習に動機づけるためだったら何でもやったし何でも読んだ。そして実践した。その実践を5年続けた。すると見事に僕の授業は改善され、半授業崩壊状態だったのがウソであったかのように仕事が楽しくなった。授業では飽き足らず、朝補習を自主的に敢行したら生徒が来ない日はなかった。

 ある日の授業中。生徒たちが一生懸命に勉強に取り組む姿を見ながらいきなり体に震えがきた。体調不良ではなく感動と喜びの震えであった。そしてなぜか目に涙があふれてきた。生徒たちは不思議な顔で僕を見つめる。僕は必死に涙をこらえながら授業を何とか終えた。5年間かけて成し遂げたのだ!自分の実践にようやく満足できた。その実践を以下の論文にまとめた。大学院で学んだテーマとは無関係。

Seki. (1999) A Longitudinal Investigation of the Development of Attitude Towards English Learning of Underachieving Learners.(英語嫌いの学習者の英語に対する態度を好転させるための縦断的研究)

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