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私の履歴書 #22 子育ての振り返り

(2020年9月8日火曜日)


前回からの流れ(ネパール大地震対応)を一旦切って、今回は子育ての振り返り。

 僕には2人の息子がいる。僕は二人の子育てが面白くてならなかったし、かなりはまっていた。「僕の考える子育て」というタイトルを立てても一本のブログが立てられそうだ。しかし、一方で僕は好き勝手な行動を繰り返していたわけで、振り返ってみると彼らは親の身勝手な行動にもめげずに、逆にそれをバネにして逞しく育った感じがする。獅子は子を教育のために千尋の谷に突き落とすというが、僕の身勝手な行動に振り回されることが奇しくも「千尋の谷」に相当していたのかもしれない。

長男は、既に度々触れてきたように超独特の感性を備え学生時代を謳歌して社会に巣立っていった。小さな頃はおとなしめの性格だったのに高2でネパールから帰国してからは「勝手に講演会」「世界にトビ立てなんとか」とかいろんな活動に首を突っ込むようになりもはや僕の手には負えなくなってきた。ネパール前後で彼の性格は内向→外向に大きく変化したが、その変貌ぶりはまるでネパールにいる間に外見がそっくりなドッペルゲンガーに入れ替わられたくらいであった。彼の子育て中の出来事はもはやギャグ満載すぎてそれだけで一冊の本になりそうである。結局、やたらと「目立つ」作品が完成した。

一方、二男は派手な長男の陰に隠れて中々目立ちにくいが、実はポテンシャルは長男を遥かに超えるとの父親評。彼の生い立ちを辿ることは私の人生を振り返るに相応しい。

新潟市で生まれた彼は海岸近くの自然豊かな地で幼少期を過ごす。幼少期は大変活発で、鳴き声も大きく手がかかる子どもであった(長男とは対照的)。生後かなり早い段階から、テレビ番組で取り上げられるほどの最高の環境の保育園に毎日通った。そんな彼に転機が訪れたのは保育園年長組の秋口。父親の指令で「いきなり」東京に引っ越しを命じられたのだ。幼児の彼は親の言うがまま。保育園の先生方は彼に同情したが、当時の僕からすれば家族を東京に異動させることが最優先事項であった。

東京に引っ越し後は、某インターナショナルスクールに入学し数か月間過ごす。しかし、長男が学校に馴染めなかったことにより、彼は再度都内で引っ越し、新たな学校に入学した。その学校でもよい先生や級友に囲まれ、毎朝誰よりも早く学校に到着したいと言ってきかなかった。しかし、父親の仕事の関係で小3を終えた段階でタイに引っ越しをする。東日本大震災直後の騒動で、級友に別れも告げることができずに飛び立った。

タイではバンコクの日本人学校に通った。その学校を見た父親は、ここにずっといてはタイの文化を学ぶことができないと、帰宅すると常にタイの学生がいる環境に置かれた。そこでも彼は前向きに元気に暮らした。タイ語もうまくなり、四年生で一番タイ語が上手いとまで言われるようになった。しかし、夏過ぎから大洪水に見舞われ学校は長期間休校になる。避難のためにいくつかの国を転々とした挙句にネパールに辿りつき、親の言われるままに、現地校(私立)に2カ月体験入学させられる。そこでも彼は前向きに元気に過ごし、いい友達にも囲まれる。しかし2カ月後にはバンコクに帰国を命じられネパールの友達とお別れ。

ここまで書いただけで彼には大変な思いをさせてしまったと反省するがまだまだ続く。

 バンコク日本人学校に復帰し数か月後に、親に言われるままに再びネパール行きを余儀なくされる。そして、貧困児童を救うための全寮制チャリティー学校に放り込まれる。川で洗濯、ろうそくの灯りで勉強。そこでも彼は活力は衰えず、すぐに言葉も覚えてリーダー格として活躍するようになる。さらに、朝学校が始まる前に僕の暮らす場所に来て2時間日本の教材で学びその後に学校に戻っていくハードな暮らし。加えるならば、当時のあの学校をわかりやすく表現すれば「なんちゃって学校」。学校がないよりあった方がいいだろう、というノリで運営されていて先生は8割が高校生。彼の先生方はよく、内緒で彼にテストの答えを教えてあげてくれていた。体罰やけんかも日常的、挙句の果てには彼の英語の先生が家出をし、僕も含めて皆総出で探し回るという珍事件まで発生した。

 そこで一年間暮らし、日本に帰国、元の私立学校に戻ろうとしたら感染症が発覚し帰国後間もなく杏林大学病院に入院。入院生活は3か月間にも及んだ。ICU(集中治療室)も経験し死亡確率〇〇%と言われて心底あせったが無事回復。その後無事学校生活に戻る。すると小学4年次に親に薦められてはじめたブログを小まめ更新する几帳面さを備える彼は、退院後の夏休み、そのブログを発展させたものを次から次へと作文コンテストに応募し受賞しまくる。高円宮妃殿下とも2年連続で会話を交わした。

 その年の冬、彼は某都立中高一貫校を受験するも不合格。通っていた私立学校は、小中高一貫校であったが、他の学校を受験した段階で上級学校には進めない仕組みとなっており卒業式と共に退学、中学は自宅近くの公立中学に進学した。この中学時代は父親目線では、彼の激動の人生の中で唯一‟人並み“な日常に見えたが、彼は読売新聞のジュニア記者に応募、合格し頻繁に一時間以上かけて都心の読売新聞本社に通った。そして高校受験。猛烈に勉強をし、超進学校である国立高校や立川高校に合格できるレベルに達する。多摩地域最難関公立である国立高校は、雰囲気が合わないと対象から外して立川高校に合格。

 高校入学後は一転高校生活を謳歌、一年次はほとんど勉強せず成績もそれなりだった。しかし、課外活動ではやたらと活躍し、ウォータボーイズ、演劇、英語スピーチ、読売新聞、至る所に彼はいた。有名な政治家やノーベル賞学者とのツーショットをいきなりラインに送ってきて「こいつ何者?」と思わされたことも少なくない。高3合唱コンクールでは指揮者。彼の指揮者としての動きは明らかに他のクラスの指揮者とは違った。あたかも世界的指揮者、小澤征爾と競っているかのようにその場のハーモニーに入り込んでいた笑。高3全英連全国スピーチコンテストでは、予選通過したものの本選の直前になって、「(自分で書いた原稿にもかかわらず)この原稿は僕の本当に言いたいこととは違う」と突然言い出し、本番では、(まさかの!)予選通過した原稿と全く違うことを堂々と話して見事に失格(先生方はあきれていた。暴挙にでながらも、直後に先生と所に向かい謝罪したのは可愛らしい)。

 一方で、高校一年生の頃から大学は海外でと言い切り、父親からは奨学金を取ってこいと命じられる。しかし大学卒業まで面倒を見てもらえる奨学金試験に一次選考で敗北して断念。高校2年後半で再度海外への進学を希望するが、「金がかかるから辞めてほしい」と親に言われ断念。一転「ならば僕は東大に行って日本一になる」と高らかに宣言した。家族一同拍手喝采(笑)したが、東大に合格できそうな気配は全く見えず、高校3年途中に早々と敗北宣言。その後必死の努力を重ねるも、大学受験全敗して現在浪人中である。

 以上、彼の人生を僕の一方的な視点で羅列したが、彼はよくも潰れずにここまでやってきたと頭が下がるほどだ。国際結婚の間に生まれた子どもとしての苦労も合わせると尊敬に値する。ここまで育ってくれただけで父親として十分に満足なので、もはや彼の進路や生き方に口出しする理由などどこにも見当たらない。

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