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【連載】“クソったれ”な日本の教育#8:世の中は教師という仕事をナメている

「【連載】“クソったれ”な日本の教育」は、教育者である私が日本の学校教育に物申すコラムシリーズです。教育者から見える日本の学校教育が、どれほど“クソったれ”かを、怒りと皮肉たっぷりでお送りします。

前回の記事はこちら。
https://note.com/ikes822/n/n3eb3cf9115c3

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数年前に、幼馴染が交通事故で亡くなった。私から訃報を伝え聞いた私の母は電話口で冷静に、「彼の人生が終わった」と言っていた。そう、あれは彼の人生であって、私の人生ではない。


一人一人の人生というものは、その当人が主役である。物語は常に「私」という一人称で繰り広げられている。教師というのは、そんな他者の人生の一部に登場し、その人に多少なりの影響を与える。我々の社会が教育を学校で行う以上、学生が己の成長期に教育を受けるというのは、当人にとって大変重大な事柄である。

学校教育の構造的問題

(注:本稿では学校で学ぶ者を「学生」と総称する。)

私、関昭典は、自分の人生の主役を生きている。その中で私は教師として、学生に対応する。

学生は、私とは違う人生を歩んでいる。私とは違う文脈の中で教育を捉えている。その時に、例えばグローバル教育を彼らに行うとして、それが当人にとって重要か否かは、極めて受け手である学生に依存している。グローバル教育が、学生にとって押し付けになってしまうこともあるのだ。

思うに、これが学校教育である。その時の国の事情、自治体の事情、学校の事情、教員の事情によって、教育内容が決まっていることのリスクに我々は気づかなければならない。教育内容を決める側、教育の担い手が、自分の人生に即して「良い」と思ったものを教育として与えることは、常に学生の内的世界を無視してしまってはいないか。

もし、自分が正しいと思っていることが、他人にとっても正しいと思っている教師がいるとすれば、それはあまりに危険な思想の持主である。

あるいは、学生の内的世界を無視しているという点で言えば、学生を年齢で括り、同じ教室に詰め込むことも、違和感のある制度である。

人の人生には、上手くいっている時と上手くいっていない時がある。年齢で括られた教室空間には、もちろん上手くいっている学生も上手くいっていない学生もいる。

上手くいっている学生は、往々にして成績が良くなる。一方で、上手くいっていな学生には、成績を悪くする要因が身の回りに沢山ある。家庭の事情や友人関係、教師との関係、健康や性別に関する悩み、食の問題。上手くいっている人は、偏差値があがり、良い大学に入学する。すなわち、人生が上手くいくような環境を‶たまたま″持った人だけが、「頭が良く」なれるのである。

観察眼のある教師

今言ったことがわからない教師は、はっきり言って教師失格である。その時その時の成績や態度だけで、学生を評価している人は、教師としての仕事を全うしていない。

もし学生が、とりわけ人生が不調な学生が、こうした残念な教師にあたってしまった場合、学生の将来はその時点で閉ざされる。どうしてかわからないけど、勉強が頑張れない。先生からは褒められない。自分はダメな人間なのだろうか。こうしてその学生は「学習性無力感」に陥っていく。


一方で、これが理解出来る教師が次に求められることは、才能を見極める力、いわゆる観察眼である。学生は調子が良いとか悪いとか、自分では決して言わない。教師は学生の様子からそれを判断しなければならない。

人生好調の学生は自ら学習を進めていく。不調な学生は「出来ない自分」にますますフラストレーションをためていく。観察眼のある教師は、そうしたフラストレーションに目をつけ、それをモチベーションに変えることが出来る。その人にあった形でのチャンスを与え、不調な学生の頑張りを促進する。時にそれは予想外のとてつもない結果を出す。私は何度もそれを見てきている。

ポテンシャルを引き出すことが、まさに教育の意味するところである。


そのためにはまず授業というシステムの中だけで学生を判断することを止めなければならない。クラスでのパフォーマンスは決して平等ではないからだ。教師は授業外でいかに学生と関わるかを模索しなければならない。

しかし、こうした観察眼を手に入れることは案外難しい。それは大学で専門的且つ実践的に教えられているわけではない。私は元来、人を見ることが好きなタイプであったから良かったものの、そうでない人がこの観察眼を醸成することはかなり難しい。

もし、あなたが、自分には観察眼が足りないと思うなら、思い切って諦めるのが良い。観察眼は短期間の努力で身に着くような単純なものではないからだ。今から必死にそれを磨くことに注力して目の前の教育をなおざりにするより、観察眼の足りないことを学生に素直に告白し、謙虚な姿勢で学生に接してはどうか。


(余談だが、たまに自身の観察眼を過度に重視した教師がいることも確かだ。そういう人は学生の成長を自らの手柄としてアピールする。「私のおかげで」などと言うこともあるが、それはあまりに学生の主体性を軽視したナイーブな教師だろう。そうなってはいけない。)

教師に対する専門性の軽視がもたらすもの

今の日本社会では、学校教育が極めて一面的であることへの自覚学生の内的世界への理解観察眼の三つを併せ持った教師はもはや貴重な人材となっている。そうした——本来は当たり前であったはずの——スキルを持った教師にあたった学生はラッキーで、そうじゃない学生はアンラッキーである、と。

そしてさらに、これに追い打ちをかけるかのように、教員志望数が減少している。つまり、教員の母数が減れば、ますます多くの学生が「アンラッキー」になってしまうということである。実力のない教師の増加は、学校システムそのものの崩壊を意味しているだろう。


最近の大学生の中で、「とりあえず教員免許を取る」という人がかなりの数いる。雇用や給与が安定しているから、持っていて損はないという論理のようだが、これは明らかに教育の専門性を軽視している態度だ。

しかも、大学側もこれに加担している側面がある。一般的に教職の授業を履修する学生を、教員になる素質がないからと言って、落とすことは出来ない。どんなに教員として世に出すのはまずいと感じる学生がいても、彼がしっかりと授業に出席し、課題を提出し、学生のレベルに合わせたテストで及第点をとれば、単位をあげないわけにはいかないのが現実ではないか。

さらに言えば、学校側もかなりひどい。教員不足にあえぐ学校が近年始めたことは、資格がなくても教員の役割を担える制度である。これは将来教師になる見込みのある人を、補助教員として雇用し、現場に駆り出す制度だ。そうして、学校は教育を成り立たせようとしている。

そのような学校は往々にして、教師の雇用と学生のためにそれを行っていると言うが、それが教師を守ることになっても、学生を守ることに果たしてなっているのか大きな疑問が残る。明らかに実力不足の教師に教育を受けることの是非は全く問うていないのである。いっそのこと、そんな学校なんて無くしてしまえとさえ思ってしまう。


いい加減な教師に習う学生はあまりにかわいそうである。今の教育構造で一番の被害を受けているのは間違いなく、学生自身であることを改めて述べておきたい。

教師として


教育者は学生の人生に入っていく。学生にとって教師は自分の人生に否応なく入ってきた人である。そうである以上教師は、その人の人生を知る努力をしなければならない。そうでなければ、教育はただの知識の押し付けに陥ってしまう。

言ってしまえば、教科教育などはこの最たるものであって、現場の教師がいちいち学生一人一人の内面など考えない思考停止の教育なのである。もちろん「教科教育をやめろ」などと現場の教員に言えるはずもないが、少なくともこれに対して危機感は共有しておくべきである。

自身の行う教育の限界を知り、学生に協力を仰げ。本当の教育に何が必要なのかを、学生と共に議論しろ。それが、教師個人が大きな教育システムの欠陥に立ち向かう唯一の、そして重要な手である。

編集:関昭典、永島郁哉

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