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私の履歴書 #23 ネパール・ヤギ小屋プロジェクト(ネパール大地震復興支援)

(2020年9月13日日曜日)


 2015年5月5日。必死の努力のかいあって、ゴールデンウィーク最終日にJICA地球ひろば国際会議場で開催されたチャリティイベントを、何とか無事に終えることができた。全国の名だたるテレビ局や新聞社が集結する一大イベントであった。その様子は当日夜のテレビニュースや翌朝の朝刊で大々的に報じられた。ニュースのみならず、ネパール地震関連の緊急番組でも特集された。

しかし大きな期待にはそれに比例して責任も大きくなる。チャリティイベントで支援金を引き受けたことで、集まった金額以上に、責任の重さが僕の双肩にのし掛かってきた。例え1円でも人からお金を受け取ったら、それを適切に使って報告する義務が発生する。その責任を自分たちが負うことが本当にできるのか、それが正しいことなのか・・・

 そもそも振り返ると僕自身、小学生の時から募金活動には懐疑的な視点を持っていた。例えばベルマーク募金や赤い羽根募金など、先生の求めに応じて協力していたが、果たしてどのように使われているか判然とせず、不審な思いを募られていた自分がいた。

 さらに、元来楽観主義者ではない僕は、考えこみ始めると悲観的になり過ぎてドツボにハマってしまうことがある。意図せずにメディアで急に脚光を浴びてしまったことによる一部の方々の謎深き“批判”も心に刺さり、行動を起こしてしまったことに後悔する時期もあった。しかし、一度始めたら責任は全うしなければならない。責任者として、支援者を裏切らず資金の不透明な流れは一切作らないように責任感を募らせていた。

 学生たちは本気になっていた。それまで互いに交流のなかったAAEEと東経大関ゼミの学生が、ネパール地震復興支援活動「メロ・サティ・プロジェクト」のメンバーとして協働し始めたのは興味深かった。さらに被災国であるネパールやアジア各国の学生たちも加わっての議論が始まった。Brewer (1997)は「共通内アイデンティティモデル」を提唱し、互いに文化の異なる集団を「ウチ」集団とするために、「ソト」文化を包括するような上位カテゴリーを形成する手法を提案した。ネパール地震復興支援「メロサティ・プロジェクト」は正に「ソト」集団同士を結びつける「上位カテゴリー」であった。ゼミ生がデザインしたお手製のリストバンドをベトナムの学生がホーチミンで手配し、東京経済大学構内や上智大学構内その他都内各所、アジア各国の大学で募金販売した。

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 募金活動と並行して「使い方」を何度も話し合った。短い期間で学生たちは何度も対策会議を行って話し合った。会議に当たっては、僕が寄付してくださった方々の思い分析して以下の3つを伝達した。

1. 本当に困っている人に届けること

2. 日本やアジア各国の学生と被災地ネパールの学生が共に考えること

3. 教育支援であること

 地震直後、ネパールの知人たちから、国際支援物資が空港外の屋外に山積みになっている、道路が寸断されているので被災地に支援が届かない、支援金搾取などかなり正確な情報を得ていた。そこで、メディアや周囲の団体の慌ただしい動きに惑わされずに落ち着いてしっかりと準備することを皆で確認した。

 支援地は被害が最も深刻なゴルカ地域の村に確定。支援方法は地震で住居、仕事を失った家庭への「ヤギ小屋プロジェクト」。ネパールではやぎ肉やヤギ乳が重宝される。やぎ小屋から出た利益の半分をオーナーが得て、残り半分を村の教育費に充てるというもの。その教育費の友好利用を長期的に検討していこうという結論に至った。その村では学校も損壊し支援を希望していたが、緊急竹製学校の設置を僕がネパールのNPO団体と交渉した。またそのNPOを通じてネパール政府に新築の要請をした。AAEEは教育団体である。そのノウハウを使うべきは教育内容の充実であり建物建設にはないのだ。説明がくどくなってしまったが、要するにAAEEと現地NPOが共同で、やぎ小屋と緊急竹製学校を支援することになった。被災地の人々には①やぎ小屋建設➡②学校建設の順番を崩さないように繰り返し使えた。教育の充実のためにはやぎ小屋経営から生み出される教育費が不可欠と強調した。

 地震から4か月経過した8月、AAEE日本とネパールの学生20名が被災地を訪れて言葉を失った。竹製の学校は完成していたがやぎ小屋には手つかずだったのである。何日もかけて被災地に辿り着いてこの有様。さらに、悪びれずに完成した学校の開校式に招待する村の幹部たちには愕然とした。現地のAAEEの学生アシスタントたちは頭を抱えるばかりであった。

 参加メンバーですぐに「緊急会議」を開催。選択肢は「支援打ち切り」「支援継続」の2択。1時間半議論した結果「支援打ち切り」を決定。数時間後には村を後にした。

 「支援打ち切り」=支援者への責任を果たしていないことを意味した。深刻な事態である。しかし、十分に信頼できない人々活動することを支援者の皆さんは望まないと思っての厳しい判断であった。

 帰国後、より注意深く支援地を検討し、ヌワコット郡の被害が大きかった村を支援することとした。日本―ネパールの新たな「学生支援検討グループ」を設置し準備した。そして、翌2016年2月。日本、ネパールの17名学生が現地を訪れ、建設完了したやぎ小屋と、そこから利益が生み出される仕組みを確認することができた。そして、帰国後の5月、AAEEが開催したイベントの中で、「ネパール地震緊急支援募金の活用報告」をした。ちなみにこのイベントは外務省やJICAに後援していただいた。

地震発生から丸一年の試行錯誤。イベントを終える頃には、もはや心身共にへとへとだった。その後数週間は大学教員としての本職以外、ソト世界との交流を完全に遮断してしまうほど疲弊していた。

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