見出し画像

短歌を作っていた頃

大学時代、短歌を詠んでいた時期があった。

短歌と言っても、現代短歌なので、言葉遊びみたいな感じ。季語とかそういう、細かいことはよくわかっていない。

詠んでいたのは大学2年生ごろ。詠むといっても、縁の下で風を感じながら風流に詠むものではなかった。

実家に一台しか無かったパソコンの前で、テレビもつけず音楽も聞かず、ただまっさらな画面の前で言葉が出てくるのをひたすらに待った。ただ外の世界だけが美しかった。思い出すのは、よく晴れた日で、窓から臨む青空は眩しかったこと。

最近ふと、そんなことよくしてたなぁと思い出した。でも、短歌を作るあの感覚は、ちょっと楽しかった気がする。なかなか言葉が出てこなくて、やっとのことさで出来上がった31音は、もうすでに自分のものでは無かった。wordの画面に縦書きになって連なるそれぞれの短歌は、私が書いたのに、もう私が打ち込む前から、そこにあるような、まるで自分が作ったものだとは思えなかった。

今同じことをしようとしても、なかなか出来ないだろうなぁと思う。実際してないし。あの時、なぜ短歌を作ろうと思ったかと言うと、楽しかったからというのもあるけれど、その前にもっとドライな感情があった。今作っとけば後々なんかの課題に使えて役に立つだろうと、そんな風に考えていたのである。いわば家事貯金みたいな。後々苦労するより、今頑張っとこ的な。実際、何かの授業で自分の作った短歌をまるまる提出して、役に立ったっちゃ立った。

でもそれからというもの、いつのまにか創作意欲は失せ、今は一つの短歌も浮かばない。同じように短歌を詠んでいた同級生は、気づけはそれで本を出していた。すごいな。そう素直に尊敬するのと同時に、私も続けていたらなんて、そんな妄想を一瞬だけした。

私が詠んだ短歌は、弟についてのものだった。

パソコンが壊れて、データも飛んでしまい、今はその短歌を一つも思い出せない。でも、当時高校生で自堕落でなんの目標も持たない弟を見て、この子は何が楽しくて生きているのだろうかと思って詠んだ、20首だった。

どこかに行ってしまった短歌たち。それを取り戻すため、何度かもう一度やってみようと試みたけれど、なかなか理由が見つからない。いや、本当は理由なんていらない。創作は、楽しいからやる。でも、それだけは簡単に人は動けないんだなあと、最近強く感じている。お金になるからとか、後々役に立ちそうとか、そんな動機で何かを始める人を少し軽蔑していたところが、私にはあった。でも、こんな素人が短歌にチャレンジする理由として、後々役に立ちそう、それ以外に理由が無かった。何かを始める理由なんて、純粋じゃなくても、いいのかもしれない。

短歌は思い出せないけれど、あの暑い日、一人静寂の中で言葉と向き合った時間は結構充実していた。今の私に、そんな贅沢な時間が与えられたとして、耐えられるだろうか。そう思いながら、その日の帰り道はいつもの景色が違って見えたのだった。

一度はサポートされてみたい人生