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【5/27雑記】物語へ埋没することの危うさ

ふと、こんなことを思った。例えば、外国が舞台の作品を、その国の人として日本人が演じる場合(台詞ももちろん日本語)。ミュージカルとか演劇とか、舞台上の表現であれば、それはすんなりと受け入れることが出来るのに、ドラマとか映画だと途端に不自然に感じる。というか、そういう手法をとっているドラマの類をあまり見たことがない。やっぱり違和感があるからなんだろうな、と思うのだけれど、なんでそんな風に思うのだろうか。その差はなんだ?そう思った。


ぱっと思い付いた答えは、埋没感。ドラマや映画(特にドラマ)は、日常の延長線上にあると錯覚しやすい。本当は、そんなことはないんだけれど。


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つい先日のニュース。テラスハウスに出演されていた方が亡くなった。しかもネット上の誹謗中傷による自殺らしい。そう聞いて、めまいのような感覚を覚えた。「可哀想だ」という感情が湧く前に、胃液が喉元までせりあがってくるような異物感と、この目の前に平然と広がる日常と。その両面に混乱して、気持ち悪くなりそうだった。


さっき言ったようにドラマや映画は、演劇とは違い、私たちの目線がフラットになる。演劇は全体を俯瞰する視点を与えられるから、その分観客と演者や舞台との間には一定の距離がある。その距離感が、演者をその劇中のその世界の人にしてくれている。私たち観客は、演者と同じ空間にいながら、観客席とステージいう距離感で、違う世界を生きているのだと理解している。だから演劇においては、日本人が何人を演じても、自然に受け入れることが出来るのだと思う。

それを踏まえると、ドラマというのは、その境界線が曖昧だ。ドラマの媒体は主にテレビ画面で、その画面にあるのはこの世界のどこかの情景で、視点も演者とほとんど同じ視点が与えられる。そうやって現実と虚構の境界線を曖昧にし、観客も物語の世界に埋没させることで、より臨場感が増し、面白くなる。逆に言えば、演劇のような距離感は排除されているから、現実の人間が物語の世界の住人になる余白は与えられない。ドラマ上で日本人が西洋人を演じることを想像すると途端に嘘っぽくなる感じるのはだからだと思う。そうやってドラマは現実の延長線上にあるように見せなければならないし、その現実と虚構が曖昧でリアルなところが、ドラマの醍醐味でもある。


テラスハウスを見ていないので、詳しいことはわからない。でも恋愛リアリティショーというのは、その最たる例なのではないかと思う。

ドラマにある程度慣れてしまった私たちは、より強度なリアルを求めるようになった。その結果、生み出されたのがこのテラスハウスのような「恋愛リアリティショー」なんだと思う。

私が覚えた、めまいのような感覚。

それは「死」という逃れようのない現実が、急に目の前に現れたからだと思う。

恋愛リアリティショーにおいては、出演者はいわば「本人」を演じている。リアリティショーとはいっても、あくまでテレビショーだ。本人は本人でも、それは物語の中の登場人物にすぎない。これはやらせ云々の話をしているんではなくて、もし全てが筋書きなしのリアルであったとしても、テレビなど観客の目があれば、それはドラマであり、ショーになるのである。

こういう恋愛リアリティショーは、やらせだとか脚本があるとか、散々噂をされる。きっと誹謗中傷している人も、ちょっと混乱していただけだ。リアルともドラマともフィクションとも言えない「テラスハウス」というショーの登場人物に、自分の意見を言っただけに過ぎないのだろう。でもそれで、一人の人生が終わってしまった。それは「テラスハウス」で描かれているようなショーではない。一人の、まぎれもない「死」という現実。

私は、こんなこと言っていいのかわからないけれど、今回の件については蚊帳の外だった。テラスハウスも見ていない、当の本人もこの件で初めて知った。でも、なんだか胸に引っかかって仕方が無かった。とても痛ましいことだと思うのと同時に、物語へ埋没することに危険性について、改めて考えさせられたから。

ようやく整理がついたので、ここに記録できた。物語は、面白い。でも、誰かを蝕むことだって出来る。私も物語を楽しむ一人として、そういう自戒を込めて、ここに残しておきたかった。


一度はサポートされてみたい人生