悲しいものは悲しい。美味しいものは美味しい。
「泣きながらご飯食べたことある人は、生きていけます」
これはドラマ「カルテット」のセリフ。最近、ふいに思い出した。
きっかけはこれ。テレビ東京の「ハイパーハードボイルドグルメリポート」。
この番組を簡単に説明すると、世界のアウトローな生き方をしている人(マフィア、ギャング、難民など)の食生活を取材したドキュメンタリー番組である。(私はAmazonプライムで拝見しました。)
その中でも印象に残ったのは、「セルビア“足止め難民の飯”」。
ある青年の姿が印象に残った。
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パキスタン出身、18歳の彼は、1年ほど前から難民生活を始め、ヨーロッパに行けば生活が良くなると思い、セルビアからクロアチアの国境を超えるGAME(国境越えをそう呼ぶらしい)に何度も挑戦しているが、一向に越えられず、セルビアで足止めをくらっている。取材を受けた前日も、トラックの荷台の下?に隠れて国境越えを目指したが、警察犬に見つかって連れ戻された。そんな過酷な状況を、ほんのり笑みを浮かべながら、平然と語る。
取材陣は、なぜ彼にパキスタンを出たのか聞く。
「爆弾のシャワーでみんな死ぬから」
そう、からりと言う。彼の住む町はアフガニスタンとの国境沿いにあり、アメリカとタリバンの戦争に巻き込まれ、毎週のように爆弾が落ちるのだという。
「兄がいたが死んだよ」
彼はそう言って首を切るジェスチャーをした。その後、ふいに涙をぬぐった。
私は、彼が泣いたのが、意外だった。
いや、肉親が死んでいるわけで、泣くのは至極当然なんだけれど。
勘違いをしていた。過酷な生活に耐え抜き、命を省みず国境越えする彼は、なんて強い人だろう思っていた。そうやって強くならざる終えなかった、可哀想な人だと。きっと人の死なんて日常茶飯事で、普通の人には悲しいことも、悲しいなんて思う余裕無いんだろうし、感覚がマヒしているんだろう。そう思っていたのだ。
そんな彼が、涙した瞬間。
悲しいものは、悲しいんだ。そう思ったら、彼の悲しみが理解できた気がして、余計に悲しくなってしまった。
彼は、私の延長線上にいる。
今まで難民の意味すら、いまいちわからなくて他人事だと思っていた。私の延長線上にはいない人種も文化も感覚も、全く違う人。それは正直、今も思わないではないけれど、でも、彼も私と同じ、平穏な生活を愛するが故、それを渇望してヨーロッパを目指していると思うと、生まれる国が違うだけで、こんなにも不公平なのかと感じずにはいられなくなる。
そういえば、一時期「カフェ難民」という言葉が、プチ炎上していたことがあったっけ。日本人は難民への意識が低すぎるからそういう言葉が生まれるんだと言っている人がいて、「なんだ今さらどうした」と思っていたけれど、この番組を見てから、私の中で確実に使いづらい言葉になった。
そんな彼も、ご飯を食べる。パンとゆでたまごとクラッカーとチャイ。パンの中にゆでたまごを挟んで、自分なりに美味しさを追求しながら工夫して食べていた。
私は、料理を作りながら、この番組を見た。そこで不謹慎ながら、想像する。彼がもしうちに来るようなことがあって、私の手料理を食べたら、なんて言うだろうか。その日の献立はさばみそ。がんもどきの煮物。にんじんしりしり。どれも和食だけれど、お口に合うだろうか。こんな良い食事は久しぶりだな。日本は、良い国だね。きっとそんな風に言ってくれるような気がする。そんなことないよ。日本だって、いろいろ問題は山積みなんだ。そう私が答えたところで、想像が追い付かなくなった。当たり前にご飯が出て来て、今日寝るところがあって、爆弾に怯えなくていい。彼に何を言っても、それ以上の幸福はないだろうから。
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私が4、5歳ごろ、ひいおばあちゃんが亡くなった。それを聞いて、目の前あるアイスクリームを食べながらえんえん泣いた。私は悲しいのに、両親はそれを見て笑っていて、なんで笑うの?と不本意だった記憶がある。その当時の私は、悲しいという気持ちと、目の前のアイスが解けるから早く食べなきゃという食欲と。両者は完全に別枠で、それがおかしいことだと思っていなかった。
それは今も変わらないと思っている。でも、私も大人になってしまった。今後、食べ物が喉も通らないような悲しい出来事があるかもしれない。できたら、そんな悲しい出来事には会いたくないけど。でも、もしその時がきたら、うんと美味しいものを食べよう。そしてその悲しみの延長線には、彼がいることを思い出そう。そう思った。
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