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理性的に考えると面白くなくなるので、もっと感情的に自分の内面や欲望を正直にむき出してから、「心を込めて理性的に考える」という順番だけのお話

会社を辞める前に考えていた起業計画を、退職後半年たった今見返してみると、吐き気がするくらいにつまらない。何というかとても理性的というか、合理的というか、コンパクトでスマートでどこかキザな内容に仕上がっていた。

これじゃあ会社を辞めて特段「やるべきこと」のない、心が無職状態の私が動けるわけがない。

会社勤めの頃は「やりたくないこと」も当たり前のように理性で「やるべきこと」とに変換してやっていたわけで。それがまともな大人であり、社会人であり、他人や周囲、会社や地球のための思考や発言、行動は尊い、疑いようのない良いことであり、やりたくないとか、あいつ嫌いとか感情に任せた発言、行動は子供であり社会に適さない人物とみなされる。

そうこうしているうちにいつの間にか自分の純粋な「やりたいこと」や無条件な「ありたい姿」ではなく、他人のために「やるべきこと」や大人、社会人として求められる「あるべき姿」の方を重要視する姿勢が染み付いてしまっていた。

もちろんそれらは重要なことであるのは変わらないが、まずは自分の本当にやりたいことや衝動、欲求などの感性を起点にして、それを社会に実装するために、また相手が理解できるように理性的に考えて伝える。

この「感性」⇒「理性」という当たり前の思考回路が出来なくなり「理性」⇒「理性」と他人のため、すべきことに最初っから毒されていることが問題だと。

ましてや若いころのように生存と生殖のために、社会的ステータスの獲得自体が人生の主目的にならない中高年は、いかに意図的に自分自身や自分の中に隠れ、息づいているマグマのような情熱をむき出していくか、そしてそれをうまく社会に繋いでいくかが、今後の長い人生をエネルギッシュに意義深く、そして魅力的に生きていくための課題になる。

となると、まずは理性を外して考えるというお作法を身に着けるのが、一つの処方箋になることだろうと思うわけです。

理性的に心の外で考えたことを流暢にそれらしく頭から口へとダイレクトに垂れ流すのではなく、まずは心から感じたことを頭へ送って理性的に編集して計画する、伝える。

「ココロを込める」という言葉の意味が40歳を超えて初めて理解した気がします。




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