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【短編小説】龍の置きみやげ

 私の15歳の夏は、おばさんが住む田舎町への小さな冒険から始まった。つまんない塾の夏期講習を抜け出して、一人で電車に乗って一泊二日の小旅行。
 青春のすべてを賭けたバレー部を引退して、勉強なんてやる気のカケラもない私にとって、「こっちの夏祭り、家族みんなで遊びに来なさいよ」っていうおばさんの誘いは天国への切符みたいに思えた。
 両親二人が休みをそろえて取るのが難しいのはわかってた。私が一人で行くって決めてさっさとおばさんに返信したら、「高校受験のための大事な時期なのに」なんてお母さんはぶつくさ言ってたけど、仕事漬けの毎日で、どうせ私が家にいたって、ちゃんと勉強してるかなんて確認してない。
 いつもならお母さんに適当に合わせてなだめてくるお父さんも、今回ばかりは私の味方になってくれた。絶対応援に行くからって約束してた引退試合、急な出張で行けなくなった分を帳消しにしたいんだな。もうこの年になって別にスネたりしないけど、そのぶん使えるカードは使わないと。とにかく私は、無味無臭のガラスケースに閉じ込められたみたいな毎日から抜け出したくて仕方なかったのだ。

「こんにちはー!」
 電車を乗り継ぎ、バスに乗ってたどり着いたおばさんの家は、私のおじいちゃんが亡くなるまで住んでいた古い木造の平屋。建ててからほとんど改修されてないらしく、オオカミが息を吹きかけたら一瞬で飛んでいきそうだ。インターホンも古くて蚊の鳴くような音しかしないから、一応押してはみるものの、大声を出して勝手に門の中に入る。ここに来るのは、3年前におじいちゃんが亡くなったとき以来。
「あらー、れみちゃん! いらっしゃい。よく来たわね」
 バタバタと玄関まで迎えに来てくれたおばさんは、あいかわらず威勢がいい。
「いつぶりかしら? さすがバレー部のエースねぇ、ずいぶんと背も高くなって。まぁまぁ、とりあえずお昼ごはん食べよっか。お腹空いたでしょ」
 そう言って、私の荷物を部屋の奥に置きに行ったと思ったら、あっという間に戻って来て私もちゃぶ台の前に座らされる。台の上には、大きなガラスの器に入った大量のそうめんが、氷と一緒に気持ちよさそうに泳いでいる。その隣に、麺つゆが入ったそばちょこが2つに、箸が2膳。
「何にもなくてごめんなさいねー。あ、ショウガでしょ、あとゴマとかつおぶしならある! 要る? 出しとくわね。やだ、なんか茶色いわね。ま、おいしければいっか」
 バタバタと何度か台所と行き来したあと、おばさんも座って食べ始める。ずいぶんと久しぶりに姪に会ったというのに、余計な気を使わないこの人のマイペースさが私は好きだ。いつ会っても、この人はこんなふうなのだ。
 
 おばさんは、去年までアメリカで働いていた。難しいことはよくわかんないけど、製薬系の研究所で研究員をしていたらしい。「女で年齢関係なく働こうとするなら、専門性をつけるのが一番確実かなぁって思って」ということだ。いくらか同じDNAが流れているはずの私は理系科目が大の苦手で、高校受験にしてすでに心が折れそうになっているというのに、うらやましいの一言でしかない。50歳になって日本に戻ってきたおばさんは、住む場所として、東京ではなく生まれ育った田舎を選んだ。
「ねぇ、おばさん。なんで日本に帰ってきたの? アメリカでずっと仕事してくれてたら、私あっちに遊びに行けたのに」
 デザートに出してもらったチョコミントのカップアイスを食べながら、聞いてみた。お中元で届いたという高級アイス、せっかくだからもう一個食べちゃおうかな。
「そうだなぁ。ちょっと人生疲れちゃったのかもね。田舎はいいわよー自然がいっぱいで。人も少ないし。おかげさまで今はリモートでできる仕事もあるしね」
「でもさぁ、東京に住めばよかったじゃない。そしたら、もっと一緒にごはん食べたりさ、映画行ったりできたのに。一人で田舎暮らしはつまんなくない?」
「こらこら、受験生。おばさんを遊びのダシに使わないの」
 笑いながらおばさんが手を伸ばしてきたので、アイスのカップを手渡す。「アイス食べるのなんて久しぶりかも」そう言って一口食べて、また私に返してきた。
「あまーい! もう一人で1カップ食べるのは無理ね。あんなに好きだったのになぁ。……なんかね、ここが懐かしくなっちゃったのよ。れみちゃんも年をとったらきっとわかるわ」
 どこを見るでもなく、そんなことを言うおばさんの顔がなんだかうれしそうに見えて、私はますます首をひねる。たしかに、田舎で静かに暮らしたくなる気持ちなんて、今の私が考えたって到底理解できるはずがない。
 お母さんが言うには、おばさんは子どもの頃から優秀だったらしい。「妹としては、いつも比べられて嫌んなっちゃうことばっかりだったわよ。しかも、あんな感じでずっと自由人だし」なんて、おばさんの思い出話をするときのお母さんは、いつだってちょっといじけている。一人っ子の私にはわからない感覚。でき過ぎた姉がいるのと、話し相手がいなくて一人遊びが上手になるのと、どっちがマシかな。
「さ、れみちゃん、夜のお祭りまでどうする? おとなしく勉強でもする? 数学教えてあげよっか。苦手だって聞いたわよ」
 空になったカップの底を見ながら私が考えごとをしていたら、おばさんがニヤニヤして顔を覗きこんできた。私はあわてて立ち上がってショルダーバッグを手に取る。
「だいじょぶだいじょぶ! テキトーに近所の散歩してくるから」
 勉強が嫌でわざわざ逃げてきたのに、ここでも勉強なんてしてられない。
「そお? 迷子にならないでよー。浴衣、着つけてあげるから、夕方には帰ってらっしゃいね」
 笑いながら食器を片づけ始めたおばさんが、「そうだ」と部屋の隅を指さした。
「出かける前に、お仏壇にお線香あげていってちょうだい。おじいちゃんもおばあちゃんも、れみちゃんが来てくれてきっと喜んでるから」
 言われて仏壇のほうに目をやると、仏壇の台の上に置くにはきっと似つかわしくない、大きなサイズの花瓶に二輪のひまわりが活けてあった。ここでもおばさんらしさは健在だ。
 3年前に亡くなったおじいちゃんと、お母さんとおばさんが子どもの頃に亡くなったというおばあちゃん。それぞれの遺影が飾られているまわりに、写真立てに入った家族写真もいくつかあって、その中には幼稚園の頃の私が夏祭りに遊びに来たときの写真もあった。はっぴを着てやぐらの上で太鼓を叩くおじいちゃん、カッコ良かったんだよなぁ。
「今年は私だけで遊びに来たよ」
 心の中でつぶやきながらお線香をたいて手を合わせ、私は二人への挨拶をすませた。

 見渡す限り緑の山々が続く向こう側に、これでもかとまぶしい青空が広がる。外に出ると思っていたより日差しが強くて、おばさんに借りた麦わら帽子を深くかぶり直した。東京よりも蝉の鳴き声がうるさい。家の前の坂道を下ると、今夜お祭りが行われる大きな神社がある。やぐらが組み立てられて、参道に提灯が飾り付けられているのが来るときのバスの窓から見えた。
「じゃ、上かな」
 誰に言うでもなくひとりごちて、私はずんずん坂道を上り始めた。そういえば、いつも家のまわりで大人に遊んでもらうばかりだったから、こうやって一人で歩き回るのは初めてかもしれない。
 ちょっとした探検にわくわくしたのもつかの間、歩き始めて15分もしないうちに、暑さと、一向に変わらない景色に飽き始めた。Tシャツの袖で顔の汗をぬぐいながら歩いていると、少し先の方に石段が見えてきた。上の方に小さな赤い鳥居がある。とりあえず一息つこうと石段に近づいていくと、階段の中ほどに同じ年くらいの女の子が座っているのが見えて、思わず声をかける。
「ねぇ、このへんに住んでる人?」
「……うん」
 想像してたよりもか細い声が返ってきた。白いワンピースに赤いサンダル、長い髪を左右でみつあみにしている。Tシャツにショートパンツの私とは大違い、お嬢様って感じ。絵を描いていたらしい。スケッチブックに鉛筆を持って私が階段を上って来るのを見ている。
「そうなんだ。ねぇねぇ、いくつ?」
「15」
「わぁ同い年! 私も15。親戚のおばさんの家がそこにあってね、東京から遊びに来たの。ねぇ名前は? 私はれみ!」
 まくしたてるように話しかけた私の勢いにびっくりしたのか、少し間があったものの、その子は笑って答えた。
「こんにちは、私はマキっていいます。れみちゃん、よろしくね」

 マキは私と同じ年とは思えないくらい落ち着いていて、しかも初対面とは思えないくらい話しやすかった。私は自分の子どもっぽさがちょっと悲しくなったけど、慣れない場所で奇跡的に話し相手を見つけたのが嬉しくて、石段に座ってマキといろんな話をした。
「じゃあれみちゃんは、今回は一人でここに来たの?」
「そう。おじいちゃんのお葬式以来、三年ぶりにね。子どもの夏休みだろうと関係なく、両親二人とも仕事漬けだからさー。まったく大人って大変だよね」
「お母さんも働いてるなんて、すごいのね」
「いやー、別にすごくないよ。たしかに頑張ってはいるけど普通の会社員だし。むしろすごいのはおばさんかな。アメリカで働いてたんだから」
「外国で? 立派な人ね」
「ほんとすごいよねぇ、私とは大違い。あーあ、もう勉強したくなーい」
 私は思わず大きなため息をつく。
「勉強、大変なの?」
 きょとんとした顔でマキが聞くので、私も急に「アレ?」って思って、冷静に考えてみた。大変か大変じゃないかって言われたら、超大変。だけど高校には行きたいし、そのために勉強しなきゃって理屈はわかる。
 あぁそっか、多分私は勉強そのものが嫌いなんじゃない。あっという間に中三の夏がやってきて、部活がなくなっちゃって、ベルトコンベアに乗せられた荷物みたいに受験のサイクルに巻き込まれてる感じが納得いかないんだ。
「三年間ずっと部活ばっかりやってたからさ、引退していきなり勉強モードになれって言われても、うまくいかないんだよね」
「れみちゃん、何部だったの?」
「バレー部!」
「どうりで、背が高いなって思ってた。きっと活躍してたんでしょう」
「へへーまぁね」
 バレーは私の唯一の取り柄みたいなもんだから、褒められるとやっぱりうれしい。 
「マキは? 部活やってた?」
「私はね、美術部。秋の文化祭で作品を展示したら引退するんだけど、今まさに制作中なの」
 そう言って、横に置いていたスケッチブックを開いて、中を見せてくれた。ちょうどこの石段から見える町の風景がそこには描かれていた。
「ここからの景色が好きで、もう何度も描いてるんだけど、最後に何を描こうかなって思ったら、やっぱりここに来ちゃった」
 マキがうれしそうに笑って、遠くのほうへ目線を向ける。その先に広がる、なんてことない田舎の景色。マキの横顔がさっきのおばさんの顔に重なって見えて、私はなんだか不思議な気持ちになった。私には見えてないけど、ここには誰もが好きになっちゃうような、何かマジックのタネが仕掛けられてるのかな。
「マキは将来の夢とか決まってる?」
「なんにも」
 大人びて見えていたマキが急に身近に感じられて、私はうれしくなる。
「だよねー。じゃあ、やってみたいことは?」
「そうだな、れみちゃんみたいに髪の毛短くしてみたい」
「ええー、そんなこと? せっかくきれいに伸ばしてるのにもったいないよ」
 マキはふふっと笑って、「冗談。そんなことしたら、親が卒倒しちゃうと思うわ」と言った。そして、目の前に広がる町の風景を見ながら、つぶやくみたいに話し続ける。
「本当は、なんでもいいから冒険にね、出てみたいんだと思うの。知らない世界に飛び出したいって思う瞬間がある。親の言うことを聞いて、優等生でやってきたけど、ほんとは私もまだ知らない私の本当の姿があるんじゃないかって。だけど、やっぱり私には勇気がないから。冒険に踏み出すなんてこと、きっとできないのよ。どうせ自分なんてって思っちゃうの」
 マキの表情が泣き出しそうに見えて、だけどなんて言ってあげればいいかわからなくて、私は急いで話題を変えた。
「そうだ、マキ。お祭り一緒に行こうよ! 私、おばさんに浴衣着せてもらうの。普段着ることないから楽しみでさ。あ、誰か一緒に行く人決まってる?」
 無理やりテンションを上げたから、どう考えても不自然な誘い方に、我ながら情けなくなる。だけど、私の気持ちをくみ取ったのか、マキも明るい声で答えてくれた。
「浴衣いいね。きっと似合う」
「どうかなぁ。だといいけど」
 逆に相手に気を遣わせちゃダメでしょって私は心の中で反省する。
「だけど私はお祭り行くのはやめておくね」
「え、なんで?」
 このへんの人たちはみんなお祭りに行くもんだと思っていたから、マキの思わぬ返答に面食らう。
「私、人混みが苦手で……。人に酔うっていうか、気分が悪くなることがあって」
「えーー残念。一緒に行けると思ったのに」
「せっかく誘ってくれたのに、ごめんね」
 マキが申し訳なさそうに言うから、私はそれ以上ゴネられなくなった。
「会場に行かなくても、町全体がお祭りで賑わっていく空気はすごく好きなの。みんなが浴衣を着て、楽しそうに集まっていく様子を見てるのも好き。あとね、お祭りの途中で太鼓の演奏があるんだけど、毎年だいたいこの石段のところで、響いてくる太鼓の音を聞いてるの」
「ああ! あの太鼓カッコいいよね。私も好き。重低音の感じ、迫力あってスカッてする」
「れみちゃんもそう思う?」
 さっきと打って変わってマキが目を輝かせて聞いてくる。
「うん。おじいちゃんがずっと太鼓やってたから見てた。やぐらの上で太鼓叩いてるところがカッコよかったんだよね」
「そうなんだ」
 おじいちゃんが生きていたころは、毎年夏祭りの時期に家族3人で遊びに来ていた。おじいちゃんはいつも大きなスイカを用意して待っていてくれた。お母さんが小さい頃におばあちゃんは病気で亡くなってしまって、おじいちゃんは男手一つで二人を育てたらしい。無口で静かな人だったけど、料理も掃除も洗濯もしてたなんてイケメンすぎる。
「そんな男の人がいるなんて……すごい! 私感動しちゃった。れみちゃんのおじいさんは素敵な人だったのね」
 自分のことじゃないけど、マキに褒めてもらうとうれしくなる。
「そういえば、おじいちゃんの話で思い出したけど、わたしのおばあちゃんもマキって名前だよ」
「そうなの?」
「私は会ったことないんだけど、かわいい人だったって。おじいちゃんの一目惚れだったんだって」
「きゃあ、ドキドキする話」
「ね! 私も初めて聞いたときドキドキした。おじいちゃん恥ずかしがって、詳しく教えてくれなかったけど。お母さんに聞いても詳しく知らないって。でも、そのあと何十年も再婚しなかったってことは、おばあちゃんのこと相当好きだったのかなって思うんだけど」
 仏壇のところにあった白黒の家族写真を思い出す。そういえば、二人だけの写真もあったな。想像つかないや。私の知らない、若かりし頃のおじいちゃんとおばあちゃん。二人しか知らないロマンスのこと。
「あ、ねえ。れみちゃん、見て」
 マキの声で顔を上げると、長くて白い雲が何本も青空を横切っていた。飛行機雲よりももっと太くて立体的で、まるで生き物みたいに力強い。
「わあ、すごーい!」
 日差しがまぶしかったけど、思わず麦わら帽子を取って視界を広げる。心地いい風が吹きぬけていく。空を見上げるだけでこんなに爽やかな気分になるなんて、やっぱり東京よりも田舎のほうが空がキレイなのかな。それとも、私も不思議な魔法にかかったのかな。
「……まるで龍が空を飛んでるみたいね」+
 マキがそんなふうに言うから、私はよけいに美しいものを見たような気になって、しばらく目が離せなかった。
「ねえ、マキ! いいこと思いついた。やっぱりお祭り一緒に行こう」
「れみちゃん?」
 マキがちょっと困ったような顔をしてくるけど、気にしないで私は今ひらめいたばかりのアイデアを説明する。
「お祭り会場じゃなくて、ここの石段で一緒にお祭りすればいいじゃん! 私、屋台でいろいろ買ってくるからさ。ここで待ち合わせして、おいしいの食べて、それで太鼓の演奏を一緒に聞こうよ」
 我ながらいい考えだと思う。これならマキが断る理由もないでしょ。
「でも、れみちゃんせっかくお祭りのために遊びに来たのに、それじゃ楽しめないんじゃない……?」
「ううん、せっかくマキに会えたんだから、一緒にお祭り気分を味わいたいの。それに、マキに断られちゃったら、私一緒に行く人おばさんしかいないし」
「でも」
「ね、いいでしょ? せっかく知り合えたんだもん。私の楽しい思い出作りを手伝うと思って、つきあってよ」
 私の強引なプレゼンに根負けしたマキが、「そこまで言うなら……」と半ばあきらめたように承諾して、「じゃあ後で! 絶対ね」と私はマキに念押しをしてその場を離れた。

 家に帰ると、おばさんが浴衣の準備をしてくれていた。お母さんが十代の頃に着ていたという、紺色に赤のトンボ柄。なんか地味なんだよなぁ、なんて思うけど仕方ない。
「そうだ、おばさん。友達ができたから、その子とお祭り行ってくるね」
「あらそう? 見知らぬ土地で友達見つけるなんて、さすがねー。じゃあおばさんは家でゆっくりしてようかな。りんご飴おみやげに買って来てくれる?」
「いいけど。好きなの?」
「そんなでもないけど、お祭り気分を味わえそうじゃない」
「テキトーだなぁ」
「あら、お祭りなんて楽しんだモン勝ちよ?」
 手際よく着付けてもらって姿見で自分の浴衣姿を確認したら、思ってたのとなんか違った。浴衣を着れば、もっと大人っぽく見えるものだと思ってた。
「あれー、たしか髪飾りもあったはずなんだけど……」
着物だんすの引き出しを開けたり閉めたりしながら、おばさんがガサゴソと探し物をする。
「お母さんが捨てちゃったんじゃないの? あの人、片づけ魔だから」
「たしかにー」
「おばさんの思い出のものとか捨てられちゃってるんじゃないの」
「あるある! 気づいたら処分されちゃっててね、もうたまんないわよ」
 苦笑いをしたおばさんはそこで手を止めて、だけど仏壇のほうを見ながら言った。
「でもま、おじいちゃんが亡くなってからのこと、全部任せちゃったからなぁ。女二人姉妹なのに私は日本にいないし、あんたのお母さんがチャキチャキ仕切って家を片づけてくれたのはありがたかったわよ」
 私はいじけた様子のお母さんのことを思い出した。
「……ねぇ、おばさん。二人姉妹ってどんな感じ?」
「なあに、急に」
「私、一人っ子だからさ。どんな感じなのかなって」
「そうねー。うん、いろいろ心強いわよ。アメリカで就職するって決めたときも、妹が親の近くにいてくれてるって思えたのはありがたかったし」
 まっすぐ答えるおばさんを見て、私はため息をつく。
「おばさんはすごいよねぇ。子どもの頃から優秀だったんでしょ? 私なんてさぁ、なんのとりえもなくって。高校受験だって、一応志望校とか決めるけど、バレー部があればいいかなってくらいで、やりたいことも別に決まってなくて。とりあえず塾とか行くけど、言われたからやってるだけ。つまんない15歳なわけよー」
 ぶつくさ言いながら、短い髪の毛先をいじる。バレーに打ち込んでいたときはあんなに誇らしかったショートカットが、今となっては心もとない。マキみたいにきれいな長い髪の毛だったら、浴衣姿ももっと似合ったかもしれない。
「あったあった」とおばさんが見つけてきたのは大きな赤いお花の髪飾りで、ピンで留めたらちょっとだけ華やかになって、ちょっとだけ元気が出た。
「悩むよねー、うん、悩む悩む。私もアメリカ行くとき悩んだもんなぁ」
「えー、そうなの?」
「そりゃそーよ。ハゲるくらい悩んだわよ。そもそも向こうでやっていけるかも不安だし、ほんとなら早く結婚して親の面倒も見てあげなきゃいけなないのかな、とかね。とくにうちは父親が一人だったから。結局、全部放り出したわけだけど」
 おばさんの話に私が驚いていると、おばさんがきょとんとした表情で続ける。
「お母さんからどんな話を聞いてるかわからないけど、私だってそんな大したことないのよ? アメリカに行ったのだって、田舎で育った息苦しさからの反骨心みたいなものだったし。おじいちゃんにはそれはもう大反対されてね。だけど、どうしても挑戦したかったから、なかば家出するみたいにして飛び出した。なのに、この年になってやっぱり帰ってきたくなったの。もうここに親は二人ともいないのに、人間って不思議よね」
「……ふーん?」
「というか、むしろ親がいなくなって、ようやく帰れるようになったのかもしれないけど」
 おばさんの話はわかるようで、よくわからない。。そして、簡単にわかったフリをして返事をしちゃいけない気がして、私はパタパタと巾着袋の準備をした。
「じゃ、そろそろ行ってくるね」
 あんまりのんびりしていたら、マキとの約束に遅れてしまう。
「あ! 待って、れみちゃん」
「なーに?」
 私が振り返ると、おばさんがそのまま私を抱きしめていた。
「何なに!? いきなり!」
「まぁまぁ照れないで。日本人だってもっと気軽にハグしたらいいじゃないって、私、常々思ってるのよ」
「なんで急にアメリカ式を持ち込むの!」
 恥ずかしさから私が体を横に背けようとしたら、おばさんはさらに腕に力をこめてきた。両腕で思いっきりぎゅうっと抱きしめられて、ようやく解放されたと思ったら、今度は私の顔に両手を当てて、真正面から目を合わせてきた。
「れみちゃん、とっても可愛い。あなたは素敵な女の子よ。どんなときでも自信を持って堂々としててね」
「……どうしたの、急に」
「ふふふ、急に言いたくなったのよ」
 私の顔から手を離したおばさんは、「やだわ、帯のリボンずれてないかしら」なんて言いながら私の浴衣の帯を確認する。
「おばさんだって子どもの頃は恥ずかしかったなー。だけど、言葉だけじゃ伝わらないことが温度で伝わることもあるのよね」
「ふーん? それはアメリカでの話?」
「ううん、ちがうの。あなたのおばあちゃん。時々こうやって、恥ずかしがりながらぎゅうってしてくれたのよ。抱きしめると伝わることがあるんだって言って」
「へぇ、はじめて聞いた」
「たぶん私はそれがうれしかったはずなんだけど、当時は恥ずかしくてね。あなたのお母さんとも、もっとハグすればよかったなぁって思ってるのよ。自分のことで必死だったから、まわりが見えてなかったけど」

 玄関を出ると、もう神社のほうからお囃子が聞こえていた。坂を下ってお祭り会場に向かっていると、どんどん人の流れが集まってくる。慣れない下駄をカランカランと鳴らしながら歩く。夏の夜のもわんとした湿気と、人がごった返す熱気。その空気を感じるだけでわくわくする。
 たくさんの提灯に飾られた広場に着くと、私は会場いっぱいに並ぶ屋台をざっと見渡した。焼きそば、たこ焼き、わたあめ、かき氷。どれを食べようか、迷ってしまって簡単には決められない。射的、金魚すくい、ヨーヨー釣り。やっぱりマキとここに来て、二人で遊べたらよかったのにと思う。
屋台で選ぶのに時間をかけてしまった上に、下駄で歩くのが大変で、さっきの石段の下に着いたときには、白いワンピース姿のマキがすでに私を待っていた。昼間に座っていた場所よりももっと上のほうの階段に座っている。
「ごめんね、お待たせ!」
「ううん。れみちゃん、浴衣似合ってる! 髪飾りも素敵ね」
「……ほんと? ありがと。髪が長かったら大人っぽく結べたんだけど」
「ううん、短いのが似合ってる。格好いい」
 マキに褒めてもらったのがうれしくて、「へへ」と思わず顔が赤くなる。さっきまで心もとなかった短い髪の毛に急に自信が出てきた。今日一日でよくわかったのは、マキはすごく褒め上手で、私はかなり単純ということだ。
「はい、これ。フランクフルトでしょ、焼きそば、たこ焼き、ベビーカステラ。おばさんにりんご飴でしょ。あとね、かき氷も買っちゃった。あ、もうだいぶ溶けはじめてるかも」
 私は屋台で調達してきたものを石段の上に広げる。遠くから聞こえてくるお囃子の音をBGMにして、マキと二人で分け合って食べた。
「会場の熱気すごかったよ。マキもいつか行けるといいね」
 マキは「そうねえ」と少し考え込んでから、「でも、どうかな」と手に持ったかき氷の容器をストローでつつく。中身はとっくに溶けて、甘いブルーの水になっている。
「もちろん行けるなら私も行きたい。だけど、期待しちゃうと後でつらくなるのよね」
 私はうまく返せなくて、ただマキが話すのをだまって聞く。
「私ね、子どもの頃から病気がちで、たくさん人との約束を破ってきたの。生まれつき人よりちょっと体が弱くて、明日遊ぼうねって言ってたのに熱が出て行けなくなる、なんてこともしょっちゅう。調子が悪くなって入院することになったりすると、約束を破った弁明もできなくなったりして。親にも友達にもいっぱい迷惑かけちゃった」
「うん」
「それで、小さながっかりとあきらめを繰り返してるうちに、だんだんそれに慣れちゃったのね。どうせ叶わないなら、最初っから期待しなきゃいいんだって思ってた。今日、れみちゃんがここに誘ってくれて、そのことに気づいたの」
 ぼんやりとマキが見つめる先には、提灯や屋台の明かりで照らされたお祭り会場が少しだけ見えている。聞きながら私はモヤモヤしたけど、マキになんて言ってあげたらいいのかわからなくて悔しくなった。私はなんて声をかけたらいいんだろう。
「……マキ、太鼓を近くで見たくない?」
 思わず口をついて出た言葉に自分でびっくりした。人混みはダメだって言ってたじゃん。マキも何も言えずに私の顔を見ている。
「ほんのちょっとだけ。太鼓の演奏、お祭りの会場で聞こうよ。だって、やっぱりあの雰囲気を味わわないなんて、お祭りを楽しんだなんて言えない。あの空気を感じなきゃだめだ」
私は思ってたことを口に出した。
「本当は、あきらめたくないって思ってるんでしょ?」
 マキが私のことをまっすぐ見つめてくる。気まずい沈黙が続いて、二人とも無言でお互いの顔を見合っていたら、突然マキがプッと吹き出した。
「もう、れみちゃんすごい。考えてること全部顔に出てる」
「え、ほんと?」
「私のこと、一生懸命考えてくれてありがとう。……もし、私に何かあったら救急車呼んでよね?」
 いたずらっ子のような顔でマキが私に言う。私はドキドキしながら、でも力強くうなずいた。
 石段を下りて、坂道を二人でゆっくり神社まで歩いた。すでにお祭り会場を後にした人たちとすれ違う。わたあめを食べながら歩いてくる人、手にヨーヨーを持っている人。すれ違うたびにマキがうれしそうに視線を向けるのがわかる。
「ねえ、マキ。髪の毛も切っちゃえば?」
「ええ? そんな勇気あるかな」
「あるある! 切っちゃえばもう仕方ないし。ていうか、髪の毛なんてまた伸びてくるし」
 私が無責任な提案をしたら、神妙な顔をしたマキがみつあみを両手で持って、「ありかも」と笑った。
 お祭りの会場に着くと、もう太鼓の演奏は始まっていた。心臓に直接響くような重低音。体全体にビリビリと震動が走る。そう、この感じ。おじいちゃんのピンと伸びた背筋と、太鼓に向き合うまっすぐな表情を思い出した。
やぐらの前に並んだ和太鼓を、おそろいのはっぴを着た地元の和太鼓チームが軽やかに演奏している。今年やぐらの上で叩いているのは若い人だった。私はマキと手をつないで、できるだけ人が少なそうな場所を陣取る。
「一曲分だけにするね」
 そう言って、マキが私の手をぎゅっと握ってきた。「わかった」と私も握り返して、太鼓の演奏に集中する。ドンドンと太鼓の音が鳴り響く中、人々の熱気に包まれたお祭りの夜の景色は夢のように思えた。

 お祭りが続く神社を後にして、二人で黙って坂道を上る。何か言わなきゃいけない気がするけど、何を言えばいいのかわからない。私の下駄の音だけが鳴っている。考えがまとまらないまま、あっという間におばさんの家の前に着いてしまったから、仕方なく声を出す。
「じゃ、またね」
「……うん」
 私は思いきってマキに近づいて、ぐるっと腕をマキの背中に回し、ぎゅっと抱きしめた。
 驚いたマキが目を白黒させているのもお構いなしで、私は腕に力を入れる。
「えへへ、なんかね、ぎゅうーってしたくなったの。これ、おばさんの受け売り」
「……」
「なんかね、言葉じゃうまく伝えられないときは、こうするといいんだって」
「……うまく伝えられないとき?」
「そう。いきなりごめんね」
「ううん。なんか、わかる気がする」
 恥ずかしそうにしながら、マキが小さく答えた。
「伝わった!?」
 私はマキから離れたあと、今度はマキの顔を正面からまっすぐ見た。
「ねぇ、約束しようよ。守れなくってもいい約束。破っちゃってもお互いに気にしない約束。私また来年も来るからさ、またお祭り一緒に行こう? もう一回、マキと太鼓の演奏聞きたい」
 こんなこと言うのはずるいのかな。私はマキの返事を聞かないで、お別れの挨拶をした。
「じゃあね」
「……うん」
 マキは小さな声で頷いたあと、くるっと私に背を向けて坂道を上り始めた。

 マキが坂を上っていく後姿をしばらく見送って、私は家の門をくぐった。息を吸って大きめの声で「ただいまー」とおばさんに声をかけて玄関に上がろうとしたとき、その壁に絵が飾ってあるのが目に入って私は動けなくなった。
「これって」
 額縁の上半分いっぱいに広がる青い空に、白い雲が何本もたなびいている。そして空を支える緑の山々の風景。この景色に私は見覚えがある。今日の昼間、石段からさんざん見続けた光景だ。
「おかえりなさーい。この時間まで、しっかり満喫してきたわね。先にお風呂入ってきちゃいなさい。スイカもらったから、お風呂上がりに切ってあげる」
 壁の絵を見ながら私が動けずにいると、玄関まで出てきてくれたおばさんが怪訝そうな顔をしていた。
 湯船に浸かりながら、私は今日一日の出来事を思い出した。石段から見えた町の景色と、マキが話してくれたこと。夜のお祭りの光景と、心臓に響く重低音。果たせるかわからない一年後の約束。
 お風呂上がり、ちゃぶ台の横に扇風機を移動させて思いきり風を受けながら、おばさんに聞いてみる。
「……ねぇおばさん、玄関に飾ってある絵、ずっとあそこにあったっけ?」
「ええ、ずっと。私が子どもの頃からよ。おばあちゃんが若い頃に描いた絵なんだって。青空を飛んでいく龍みたいよね。おじいちゃんがよく見てたわ。処分されずに残ってるってことは、お母さんのお眼鏡にもかなったってことかしらね」
 話しながらおばさんがスイカを冷蔵庫から出してくれた。大きくカットされた半月型のスイカを前にして、もうひとつおばさんに聞いてみた。
「じゃあね、坂道をずっと上がっていったところの神社、行ったことある?」
「あら、神社? 坂をくだったところでしょ?」
「違う、お祭りのあった神社じゃなくて、坂を上ったところにも、小さな赤い鳥居のある神社があるでしょ? 長い石段があって」
 言いながら、私はお皿の上でスイカの種をフォークで一つずつ取っていく。
「ああ! 石段のところのね。今は立ち入り禁止じゃなかったっけ。そういえば昔、神社があったって聞いたことあるけど……私も行ったことないわよ。もうずいぶん昔の話じゃないかしら」
「ふーん……」
 私はそれ以上何も言えなくなって、ひたすらスイカの種を取る作業に集中した。「かぶりついたほうが早くない?」っておばさんがりんご飴を舐めながら言ってきたけど、無視してスイカの種取りを続けた。
「それで、お祭りは楽しめた?」
 そう聞かれて、一瞬うまく言葉が出なかったけど、おばさんの顔を見てうなずいた。
「楽しかったよ。……来年も来たい」
「そう、それはよかったわー。来年はお父さんとお母さんも来れるといいわね」
「それはどうかなぁ」と言いながら、ようやく種を取り終わったスイカにかぶりつく。スイカは思ってた以上に甘くて、だけどちょっとだけしょっぱい味がした。

 翌日、帰り支度を整えた私は、仏壇の前に座ってもう一度お線香をあげた。おばさんも横に来て、黙ったまま二人でしばらく手を合わせる。
 二輪のひまわりの横に飾られているおじいちゃんとおばあちゃんの写真。新婚旅行で浅草を訪れたときのものらしい。幸せそうな笑顔でおじいちゃんに寄り添うおばあちゃん、よく見ると髪型はショートカットだ。やっぱりすごく似合ってる。いつか髪を伸ばして、もっと大人っぽくなった私のことも見てほしかったな。
「さ、最後にもう一回ハグしとく?」
 聞いておいて、おばさんは私の返事を待たずに私を抱きしめる。私はもう抵抗する気が起きなくて、自分でもおばさんの背中に腕を回した。ぎゅうっと力を込めると、じんわりと癒されたみたいな気持ちになった。
「ねぇ、おばあちゃんはお母さんにはハグしなかったのかな」
「ん? なんで?」
「だってうちのお母さん、そんなにハグとかしないよ?」
「うーん、おばあちゃんが亡くなったとき、お母さんは小さかったからなぁ。してもらってても覚えてないかもしれないわね。そのぶん私がしてあげればよかったんだろうけど」
 おばさんは私から体を離して、今度は私の頭をなでた。
「れみちゃん。勉強はさ、やりたくなったらやればいいから。バレーでもなんでもいいから楽しめること見つけなさいね。人生なんてお祭りと一緒。思いっきり楽しんだモン勝ちなのよ」
「えー、そんなこと言ったって」
 私は夏期講習のスケジュールを思い出してげんなりした。この2日間休んだ分の宿題も溜まっている。すると、おばさんが数冊の雑誌を持ってきた。
「これね、ここで暮らすようになって、おじいちゃんの本棚の中に見つけたの」
 ラジオ英会話の教本だ。パラパラとめくってみると、鉛筆で細かくメモが書き込まれている。
「まさか、あのおじいちゃんが英語の勉強をしてたなんて私知らなくて、見つけたとき思わず笑っちゃったわよ。人間80歳を過ぎてからでも、その気になったらいつでも勉強は始められるってこと。だからね、楽しくもないのに無理やり頑張る必要なんてぜーんぜんないの」
 私はおじいちゃんが机に向かって英語の勉強をしてる姿を想像した。いつかはおばさんに会いにアメリカに行こうって思ってたのかな。私よりよっぽどまじめに勉強してたんだろうな。
「ね、れみちゃん! 帰ったらお母さんにハグしてあげてよ。気が向いたらでいいから。おばさんからの挨拶だって言ってさ」
「えぇー」
「いいじゃない。お父さんにも。田舎に行ってなぜかアメリカンスタイルを身につけてきた娘を見せて、二人をびっくりさせてやりなさいよ」
 あいかわらずマイペースなおばさんに私は苦笑する。
「この子大丈夫かなって心配するんじゃない?」
だけど、おばさんはニヤニヤ笑う。
「いいのよ、心配させてやるくらいで。あなたは思いっきりやりたいようにやればいいんだから」
そう言って、もう一度にやりと笑う。
「それで、お母さんには、時間を作ってお墓参りに来なさいよって言っておいて。あなたが来るまで、私が代わりにお線香あげとくからって」
「もう、いろいろ注文が多いなぁ!」
 あっという間にバスの時間が近づいてきたから大慌てで家を出る。おばさんは、「いつでもまた遊びに来てね」って言いながら門の外まで見送ってくれた。
 バス停に向かって歩き始めてしばらくして振り返ると、おばさんはまだそこにいて、遠くの空を見上げていた。もくもくと真っ白な入道雲が青空に映えている。今日も蝉がにぎやかに鳴いている。その光景は、いつだって思い出せば私を抱きしめてくれる、何よりも心強いお守りみたいに見えた。


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