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富山の「土徳」と別府で感じる空気の共通点について

6月に富山県の西部エリアに5日間行ってきた。とある研修プロジェクトに参加し、民藝について学ぶ機会があったからだ。

民藝運動を始めた柳宗悦が「美の法門」を書き上げるために62日間滞在した城端別院善徳寺で、彼はこの富山県の西部エリアには「土徳」があると説いた。

これはなかなか説明が難しい、というか言語化してはいけないようなキーワードだが、個人的な「土徳」の解釈としては浄土真宗から生まれる他力思想「おかげさま」の考え方や、そこから自然と共生する人々の価値観、そういったものから紡がれるすべての自然や人や場所から流れる空気感のようなものだと感じた。

見えない糸で、それぞれが調和したり繋がっているような空気感。

その基盤には、寺がコミュニティのように解放されていて、そこに「南無阿弥陀仏」と無心で唱えられる環境があって、「おかげさま」という他力の考え方が脈々と繋がれているからだと思う。

5日間滞在しただけでも、そこに触れることができた。例えば、「近所だから」と毎日早朝に寺で説法を聴きに来るおばあちゃんや、同世代の地元の方と普通に会話をしている中で出てくる「おかげさま」という言葉、寺の境内でチェロを演奏している人や、駆け回る近所の子どもたち。

そうした「土徳」が育つための欠片が、この富山西部エリアには散らばっている。

そしてそれと同じように、私が住む大分県別府市にも「土徳」のような空気感がある。街の人たちはよく、「別府は温泉でみーんな裸になって、何者でもなくなっちゃうから、受容性の高い街なんだよ」と言っていた。これを何という言葉で表現したら良いのか、私はまだ分からない。けれど表現したいと思っている。それがきっと、私が今考えている根底にあるものだから。

2024年6月10日に別府のジョイフルで書いたイメージ

別府には、昔から100円で入れる地域の温泉「共同浴場」が沢山ある。何なら、2階は公民館になってたりもする。パブリックに開かれている場所が別府の温泉だ。

裸になって、お湯と自分の身体の境目がなくなって、は~っと深呼吸できる。私はこのとき、ハレでもケでもないところに自分がいるような感覚になる。この状態と、富山のお寺で出会った念仏を毎日唱えていたおばあさんは、きっと同じ状態だ。

感覚的だけど、なんだかそう思う。

この状態(仮にHAAという)をうまくつくれると、自分のことばかり考えるんじゃなくて、自分を客観視できるようになって、周りにもやさしくなれる。いつも私はこの状態(HAA)をつくるのが下手で、いっぱいいっぱいになってしまう。

けれど新潟にある湯治宿「自在館」に行って、お湯の力を借りてHAAをつくれるようになったら、家族に「自分が食べた美味しいお米を送ろう」と自然に思えるようになった。つい最近も、妹とやっているポッドキャストでもそんなことを話していた。

別府は、深呼吸できない私がHAAをつくるために、共同温泉のお湯がサポートしてくれる。富山はそれを、寺の念仏がサポートしてくれている。

きっと地域には別府で言う共同温泉や、富山でいう寺が他にもあるのではないだろうか。そしてそれは場所だけではなく、習慣など目に見えないものもあるかもしれない。

私はこれから、このことについてもっと深めていきたいと思っている。こんな場所あるよ、こんなことが地域でHAAが昔から根付いているよ!という方がいらしゃったら、是非SNSのDMなどで教えてほしい。

これから私は、日本に眠るHAAを探っていきたいです。

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