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【連載小説】朝陽のむこうには ~サバトラ猫のノア~ 4〈全8話〉

「人間だった時に住んでいた家に行ってみようと思うんだ」
僕はママ猫のミイと兄弟猫のトムにそう告げた。

「行ってみたらいいよ」
ミイは特に驚いた様子もない。
「だけど、ちゃんと準備をしてからにしないといけないよ」

「ノアはさ、一度も牧場の外に出たことないよね」
トムはそう言ってあれこれと僕のおっちょこちょいのエピソードを話し始めた。
そして、こんなノアでもしっかり準備をすれば大丈夫だよねとミイに訊く。
僕のことを心配しているんだね。

「物事を始める時はしっかり準備することが大切で、その準備によってその後の結果が全く違うんだよ」
ミイは言った。
僕はミイやトムにも協力してもらって、ひなた市に行くための情報を集めることにした。
それは、パパさんたちや牧場に来た人たちの話を注意深く訊いておくということだ。

そして僕がやらかしそうな失敗を回避する方法をトムに伝授してもらうことも始めた。
トムは人間だった時にサーファーだからからか運動神経がいいんだ。
同じ日に生まれた兄弟猫なのになんでこんなに違うんだろう。

黒猫にも話を訊くため、いつもの林に向かった。
でも黒猫はいなかった。
寒い季節になったのでこの林には来ないのかな。
しかたなく黒猫がごはんを食べにくる馬舎のそばで待つことにした。
何日も会えなかったけど根気よく馬舎に行っていたら、ある日黒猫がのっそりとやってきた。
久々に会った黒猫は「寒いなあ」と言いながらも元気な様子だ。暖かくていいねぐらを見つけたと喜んでいる。

黒猫は僕の話を聞いて「大切なことを言っておく」と言った。
「なあに?」
「暖かい季節になってから出発することさ」
そんなこと?
「たぶん長旅になる。寒い季節に出発したら途中で倒れてしまうよ」
黒猫も僕のことを気に掛けてくれているんだ。

ミイとトムは毎日の夕ごはん後に、人から聞いたひなた市の情報を教えてくれる。そして、僕がどちらに進めばいいかを一緒に考えてくれた。
ミイは獲物の捕獲の仕方や食べられる野草についても教えてくれた。

「近くの山田牧場の山田さんが今日話していたんだけどね」
トムが新情報を持ってきた。
「朝、ひなた市に向かう時は朝陽が眩しくて車が運転しづらいんだって。ということはさ、太陽が昇る方向を目指せばいいってことじゃないかな」
ミイもそれに続く。
「そういえば、ひなた市から来たって人が、家から見えるあかね山が朝陽に照らされてきれいだって言っていたことがあった。ハウスの二階の窓から見えるあの山のことだよ。ひなた市からは朝陽に照らされるあの山が見えるってことだ」
そうやってこつこつと情報を集めていった。

木々の若葉が生き生きと葉を広げ、木の芽もふっくらとしてきた。
寒さも徐々にやわらいで暖かく感じる日が多くなった。

夜明け前。
さっきまで降っていた雨もあがっている。
遠くの空の雲がうっすらと明るくなり始めて景色の輪郭が現れてきた。
「よし、出かけよう」

なにも知らないパパさん、ママさん、かえでさん。
ごめんなさい。心配をかけてしまうね。

              ・・・・・・
 
牧場から外に出るのは初めてだ。

目の前にある道は遠くのほうまでまっすぐに延びている。
その道の先にある空はさっきよりも明るくなっていた。
この道を進むことは出発前から決めていた。黒猫がよくいた林に面した道。
時間をかけて収集した情報をもとにミイとトムと話し合って決めた。

決めていたのに。なかなか歩き出せない。

ひょっとして、進む方向が間違っているかもしれない。
たったひとりで誰にも守ってもらえない旅。
僕にできるのかな。

不安がこみ上げてくる。

いや、大丈夫。
ちゃんと準備をしたんだから。
自信を持つんだ。

もし道が間違っていたら……。
あー、そんなことばかり考えちゃだめだ。
その時に方向を変えればいいだけじゃないか。
僕は自分に言い聞かせた。

僕はやっと歩き出した。
舗装された道の端っこをひたすら歩く。

道の脇に生えた雑草の中で鳴いていた虫が僕が通ると息を潜める。気になるけどそのまま行き過ぎることにする。

進行方向に太陽の光が姿を現して、光の束が道の向こうから僕のいる方へのびてきた。急にあたりがぱっと明るくなり雨あがりの道がきらめきはじめた。
さっきまで薄暗かったのがうそみたい。

朝陽はいっそう眩しくなってまっすぐ前を見ることができない。
歩く道も光に包まれてよく見えない。
でも僕はとにかくまっすぐ歩き続けた。

なにがあるか分からないけど、朝陽のむこうを目指すんだ。

ずいぶん歩いたと思う。
ふと立ち止まって来た道を振り返った。牧場の木々はもう見えなくなっている。
早いペースで歩いていたみたい。ドキドキする気持ちが足早にさせていたのかも。やっぱり興奮しているのかな。

僕はあたりを見渡す。畑や田んぼばかりだ。
そばに小さな川が流れているのが見えた。その川の周りには背の高い草が生い茂っている。
僕はその草むらの中に入り、草をなめて水分補給をした。
そして、適当な場所を見つけてしゃがんだ。
草や葉が太陽の光を遮っていて土はひんやりしている。
暫くの間、僕はそこで眠ったり毛繕いをしたり、近くにくる虫たちを眺めたりしながら時間を過ごした。

そろそろ出発しよう。
太陽はもう高いところにある。
できるだけ暖かな日なたを歩き、草の中や木の下で何度か休息をとった。
別に急ぐこともない。

歩いているうちに周辺は徐々に住宅が多くなってきた。
気になる路地を歩き、通ってみたいと思った細い隙間を通り抜け、高い塀や階段を登る。
田んぼや畑ばかりの時よりも寄り道することが多くなってしまった。
そんなことをしていたら急に眠くなってきた。いつもの習慣なのかな。すごく眠い。
とりあえず民家の庭の茂みでひと寝入りしよう。
そうして起きた頃には太陽が傾き始めていた。

お腹が空いた。

いつもなら牧場でママさんがごはんを用意してくれる。でも今は待っていたって誰もごはんを用意してくれない。
自分で獲物の捕獲をしないといけないんだ。
ミイにやり方は教えてもらったけど……。

今までも牧場でネズミを捕まえようとしたことはあった。
でも、成功したことは一度もない。えー、大丈夫かなあ。

塀の上でそんなことを考えていると、路上に小鳥が数羽やって来た。
そしてなにかをついばみ始めた。
僕は身を縮めて身構える。
じっと鳥たちの様子を上からうかがう。

「今だ!」
鳥たちに向かって前足をいっぱい広げてジャンプした。
鳥たちは皆びっくりして僕が着地する前に飛び立ってしまった。

あーあ、ダメだった。鳥たちにかすりもしなかったよ。
こんなところを誰にも見られたくないな。
そう思いながら後ろを振り向くと、道を横切っている猫と目が合った。

出会ったその茶色の毛の猫はちょっとミイに似ていたけど、ミイよりも白い毛が多めな感じ。毛は長くてしっぽまでふさふさしている。
その猫はいつも自分がごはんをもらう場所に僕を連れていってくれるという。
失敗に終わった僕の残念な狩りを見て、「コイツ、このままではごはんにありつけないな」と判断されたのかもしれない。

「レオは、野良猫なの?」
僕はレオと名乗ったその猫に訊いた。
「オレたちは野良猫じゃなく、地域猫と呼ばれているんだ」
レオが教えてくれた。
この辺りではもともと野良猫だった猫たちを、地域の人たちがみんなで協力して世話をしているそうだ。そのような地域全体で見守られている猫たちを地域猫と呼ぶんだって。

地域猫の世話をする人たちはごはんの用意をするだけじゃない。猫と猫、人間と猫のトラブルが起こらないように気を配ったり、危険から守ってくれたり、時には病院に連れて行ってくれるらしい。

そのごはんの場所に他の猫はいなかった。
レオと一緒にごはんを食べていると、ひとりの女の人が僕に近づいてきた。

僕は食べるのをやめて身構えた。
その女の人は僕から少し離れた場所で前屈みになって僕を見つめた。
「この猫ちゃん。初めて見るわね。ねえ、知ってる?」
後ろにいた男の人に話しかける。
「僕も初めて見たよ。どこから来たんだろうね」
その男の人は少し近づいてきて僕をいろいろな角度から眺めた。
「去勢はしてないようだね。オスかな」
そう言いながら僕のほうに手をのばした。僕はさっと身をかわし少し離れた場所で彼らを振り返った。
「心配いらないよ。なにもしないから。さあ、ごはんを食べなさい」
男の人は優しい声で僕に話しかけた。

どうしよう……。
黒猫の話が頭の中をぐるぐる駆け巡る。
優しい人もいれば、そうでない人もいる。結局自分で判断しないといけない。用心するに越したことはないと言っていた。
この人たちはきっといい人だと思う。でも、初めて会った人だし。

やっぱり用心することに決めた。
まだ食べ足りない気もするけど空腹は収まった。
レオはまだごはんに夢中だ。
心の中でレオに感謝しつつ、その場所を去った。

あたりはすっかり暗くなってきた。
昼間とは違い、夜は周囲がよく見える。
でも安心はできない。用心、用心。
僕は歩き続けた。

この道でいいのかな。
ひたすら同じ方向に向かって歩いていたつもりけど。
しまった、レオにひなた市がどちらの方向か聞けばよかった。
仕方ない。とりあえず歩こう。
僕は時折休みながら歩き続けた。

段々と空が明るくなっていく。夜が明けてきたんだ。
僕が小道を通り過ぎようとした時、民家の庭先に犬がいるのが見えた。
牧場にいるブッチさんやブラウンさんよりも小柄な犬だ。犬小屋の中で前足にあごを乗せて寝ていたけど、目を開けて僕をちらりと見た。
目が丸くて優しそうな顔をしている。耳をピンと立てたけど吠えたりはしない。僕はゆっくりその犬に近づいていく。
長いこと誰とも接していなかった。会話はできないけどコミュニケーションはとれるかもしれない。

と突然、犬は立ち上がって、ものすごい勢いで僕に向かって吠え出した。
僕は慌ててその場から逃げ去った。

びっくりした。背中の毛が逆立っちゃったよ。

会話はできないけど犬たちはみんな友だちだと思っていた。ブッチさんやブラウンさんのように優しくしてくれる犬ばかりじゃないんだな。

落ち着け、落ち着け。
僕は近くの公園に入り、草むらの中で長い時間毛繕いをして過ごした。

ぽつぽつと葉に雨が当たる音がし始めた。
その音は徐々に多く、大きくなっていく。
雨宿りできる場所を探さないと。
公園内を足早に歩く。そして雨に濡れない場所をやっと見つけた。

倉庫のような建物の外に置かれた木製の物置棚。その中段にあったかごの中は僕がすっぽりと入れる大きさだ。かごの中に入り少しほっとした。
雨が次第に強くなってきている。
僕は少しでも雨がかからないように体を小さく丸めて眠った。
 
雨があがったのは太陽が高く昇ってからだ。
雲に隠れている太陽はぼんやりと白く光って見える。

公園を出て雨あがりの道を歩いていると三毛猫に出会った。
今度こそ、ひなた市の方向を聞こう。
「ひなた市に行きたいんだ。どっちに行けばいいか知っている?」
「知らないよ」
その猫は一言だけ答えるとさっさと行ってしまった。
くじけずに出会った猫に訊ね続けた。
でも、知っていると答えた猫はいなかった。

段々と日が暮れてきた。あてもなく上り坂を歩いていく。
すると急に目の前の視界が開けた。大きな公園みたいだ。
見晴らしのよさそうなベンチにひょいと上がる。
そこからは灯りのともり始めた街が見下ろせた。雲の隙間からきれいな夕日も見える。 
「今日はここで寝よう」
僕はベンチの横の草むらの中に適当な場所を見つけ丸くなった。

深夜、少し先の草むらからカサッカサッと音がする。
――何かいる。
鳥や昆虫じゃない。僕より大きい動物の予感。臭う。
僕は身構えた。

ガサガサ。ガサガサ。

現れたのは見たこともない動物だった。
全身茶色い毛で、しっぽが長く頭のてっぺんから鼻まで筋状に白い。

黒猫が教えてくれたハクビシンだ。
凶暴だから気をつけろと言っていた。

僕を見つけたハクビシンも一瞬驚いたようだった。でも、すぐその後には牙をむき威嚇するように唸り声を出し始めた。

僕は動けなくなっていた。
前足も後ろ足も硬直したようになって爪も縮こまっている。
戦うつもりは全然ない。
だけど、やられるわけにはいかない。

僕は体を大きく見せようと思いっきり前足をのばし背中を上に持ち上げた。眼をそらしちゃいけない。
そして、僕なりにがんばって叫んだ。
「シャーッ」
長い時間、向き合ったままの心理戦が繰り広げられた。
ちょっとでも動くと攻撃されそう。ぴくりとも動かないぞ。僕は大きくて強いんだ。

そうしていると、ハクビシンはふっと力を抜いてゆっくりと後方に向きを変えた。そして、ゆっくりとした足取りで去っていった。
僕はしばらくそのままでいた。

いつ眠ったのか覚えていない。明け方に目が覚めて、深夜の出来事を思い出した。

本当に怖かった。

              ・・・・・・

それからは、坂を下りて街を歩き回り、またこの丘の公園に戻るという日々が続いた。どこに向かって歩けばいいのか、分からなくなってしまっていた。
不安だし、怖い。
でも、引き返したくない。

ここで過ごすうちに、獲物の捕獲もできるようになった。十分ではなかったけど生きていけるくらいは獲物をしとめている。
ある日、僕はいつものようにベンチの上に立って街を見下ろしていた。
まだ明けきらない薄暗い街。
停まっていたトラックが動き出して走り去っていく。どこへ行くのかな。
ひなた市にも行くのかな。

僕は丘から下りてそのトラックが停まっていた場所に向かうことにした。
少し道に迷ったけど、どうにかたどり着いた。

トラックの駐車スペースの脇にある大きな木の下を拠点に何日か過ごしていると、いろんな人が声を掛けてくれるようになった。
ごはんや水を用意してくれて、雨風に影響されない場所に僕の寝床を用意してくれた。
僕は少しずつ彼らに心を許して、彼らが触ることを許した。

みんな優しくなでてくれる。懐かしい感触。
かえでさんたちのことを思い出し、ちょっと寂しくなった。
暫くすると、そこの敷地内の建物に人がいる時間は僕も建物に入れてくれるようになった。
閉まったドアの前で座って待っていると、通りかかった誰かがドアを開けてくれるんだ。

ここには一匹の茶トラ猫がいる。
名前はシナモン。

シナモンはここに住んでいるのではなく、毎朝、おなかの大きなおじさんに連れられてやってくる。
もう随分永く生きているおばあちゃん猫だ。
シナモンはいつも寝てばかりいるけど、時々僕とおしゃべりをする。

僕は牧場に住んでいたことや、ひとりで旅をしていることもシナモンに話した。
「ひなた市に行きたいんだ。シナモン、どちらに行けばいいか知ってる?」
「ワタシには分からない。でも、そのひなた市ってのは聞いたことがある。ここは運送会社だからいろんな地域に荷物を運ぶんだ。ここで人の話を聞いていたら情報を得られるだろうよ」
それからシナモンは「ノアは勇気があるね。ひとりで怖くはないの?」
と訊いた。
「今もずっと不安な気持ちでいっぱいだよ。僕ひとりで何日も過ごすのは心細かったし、怖い思いもしたんだ。おなかがすいても食べるものがなくて、辛かったことも何度もあった」
「そうなんだね」
「でも、決めたんだ。おかあさんたちに会うまで諦めないって。だけど、そうすることにどんな意味があるのか僕は分かっていないんだ」
心の中をできるだけ正直に話した。

シナモンは僕の話を優しく穏やかに訊いてくれた。
「ノア、結果がどうなろうとも後悔しないようにね。それが終わりではないのだから。ずっと続いているものがあるんだよ」
「ずっと続いているものって?」
シナモンは「それは自分で気づかないとね」と答えただけだった。
 
その日の昼ごはんの後、僕はシナモンにぴったりと寄り添って眠った。
シナモンの体は柔らかくて温かい。
こんなに安心して寝られるのはいつぶりだろう。

僕はデスクの下や通路の隅っこで毛繕いをしたり寝転がったりしながら、運送会社の人たちの話を聞いて毎日を過ごした。
そうしているうちにひなた市の方向が分かってきた。

「シナモン、僕は明日、ここを出ようと思う」
「そうかい、行くんだね」
シナモンは僕に近づき、僕の顔をぺろりとなめた。
「ノアにとってこの旅はきっとかけがえのないものになるよ」

出発の時がきた。

シナモンにはお別れを言えたけど、運送会社の人たちには言うことができなかった。
今まで優しくしてくれてありがとう。
お礼に捕獲したネズミを一匹、ドアの前に置いておくね。
























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