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「褒められると苦しい」から「褒められて嬉しい」へ

頑張ったことを褒められると、一瞬は嬉しいけれど、その後に不安が襲ってくる。次にちゃんとできなかったら、失望されるのではないか。

頑張っていないことを褒められると、驚くと同時に、どうしてそんなことを言うのだろう?本当にそう思っているのかな?と疑ってしまう。

褒め言葉をもらって「ありがとう」を素直に言える人から見ると、私の脳内は理解不能な世界だと思う。

それって褒めてくれた人のことを全く信じていなんじゃない?と言われたこともあった。

他の人に何か問題があるわけではない。ただ私の問題だ。そしてそんな自分に罪悪感を感じてしまう。

これらの感情は自己肯定感の低さや、子供の頃あまり褒められた体験がない人に多い傾向らしい。

思えば、私の両親は謙遜を美徳とする世代だったこともあり、他人から褒められてもまっすぐ受け止めることはなかった。子どもたちに関しても「うちの子は何にもできなくて......」と近所の人と話す姿を見ることもあれば、自宅で「お母さんの子どもなんだから、もっとできるはず」と謎の励ましを受けることもあり、私はその度に混乱していた。

そしてそんな母を間近で見ていた私はいまも、褒められるとまずは否定という前時代的なアプローチを取ってしまうようになった。

けれども最近は、いくつかの褒められ方の場合は、素直に受け止めることができる.......むしろ、褒めてもらったことにとても感謝していることが自分でもはっきりしてきた。

それは、結果よりもプロセスを褒められたとき。

そして、自分の存在自体をまるっと認めてもらえたとき。

私の仕事では、短期的な結果に比較的強いコミットメントが求められる。プロとして結果を出すことは当然だ。誰もあなたの頑張りなんて見ていない、頑張って褒められるのは学生までと、新卒で入った会社では最初に言われた。それ以来、私の視点はずっと結果のみをフォーカスしていた。それは、とてもとても孤独な作業で心が折れそうだった。

お客さんや誰かに喜んでもらえた。売上や利益が上がった。

こういう結果は、何よりも嬉しい。けれども、そこに自分が出した付加価値を見出せなかったことも多かった。何をやっても、あれ?結局わたし、何をやったんだっけ?と悲しくなってしまう自分がいた。

だからだろうか。

「この文章の表現や構成には工夫がある。最後にこうまとまっているのは素晴らしいね」と言った自分の頑張り=プロセスへのコメントや「いてくれて助かった」という言葉には、自分に役割 / 居場所ができたような感覚が私には生まれてくる。

言い方ひとつで心象が180度変わってしまうのは人間の面白い一面だな、なんて他人事のように感じつつ、自分を観察することで、言葉を素直に受け取れない自分を責める気持ちが少しだけ減った。

そして自分が誰かを褒めるときにも、受け取る方が素直に受け取ることができる言葉をさがそうと思うようになった。きっと褒め言葉を受け取ることが難しい人は私以外にもいると思うから。

とかく結果ばかりを追い求められがちな世の中で、仕事以外にも自分の居場所となる場所を自分で見つけることができた私はとても幸運だ。だから今日は、そんな褒め言葉を言ってくれた人たちに感謝を言う日にしよう。

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