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自分の言葉を紡げない

小学生の頃から、国語は得意だった。もともと読書が好きだったこともあり、定期試験はほぼ満点。大学受験のときも、現代文は勉強しなくてもまったく問題なかった。

・作者の意図について述べよ。
・ここでいうXXは、どういう意味か。
・次の選択肢から、この一文と同じ意味の文を選べ。

本文に書かれていることを探せば良いだけなのに、現代文の試験で悩む友人を見ると「英語なら難しいけど、日本語なのに何で解けないのだろう?」と純粋に不思議に思っていた。(これは嫌味ではない)

そして、1年前。

・自分の人生を救ってくれた本について熱く語る友人
・映画や音楽への愛を心から楽しそうに描いているブログ
・自分の夢はこれだと宣言するtwitter

気づいたら、私のまわりに「好きを語る人」が溢れていた。

社会人になってから、好きや嫌いを基準に働いたことはなかったし、本や映画をオススメするときも「これ面白かったよ!」「新作の映画で気になるのはこれだな〜」と軽く話しても、ほどほどにその場は盛り上がっていた。

それなのに、いまの私のまわりには、語る人たちばかり!

・なぜその本でなければ、自分を救えなかったのか
・なぜその映画を、心の底から面白いと感じたのか
・なぜ自分の人生を賭けて、その夢を実現させたいのか

やばい!これはとんでもない世の中になってしまったのか!それとも私は間違ったところに来てしまったのか?と焦って、常に最新の情報・効率性が命でしょと読んでいたネットニュースやビジネス新書にいったん別れを告げ、とにかく人が薦める本(小説や漫画)、映画、その他のコンテンツをむさぼった。

...で、作品と情報の洪水に飲み込まれた。

面白かった。けれども、どんな内容なのか言い表せない。どこがどう面白かったのか説明できない。あれ、これって面白いと思ってないんじゃ...と不安になった。たくさん見て、読んで、聞けば、その作品やアーティスト(作り手)について詳しく知る=語れると思っていたのに、まったく語れない。当時は、たった数ヶ月間で私が触れた作品数は圧倒的に少ないから、まだまだ数が足りないことが原因なのかと思っていた。

今、振り返ってみると、作品数の問題ではなかった。

私が語れない原因は、なぜ面白いと感じたのか考える時間が圧倒的に少なかったからだ。自分が主語なのだから、国語の試験みたいに正解は書かれてはいない。それなのに、どこかにあるとずっと探していた。

そのうえ関連性の少ない作品を矢継ぎ早に見ていたので、自分の中で体系的にまとめることができていなかった。

映画『アメリ』を友人たちと鑑賞した後に、正解のない問いを何個も立てて、アメリの面白さを際立たせている世界観や表現技法について語り合ったこと。

谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』を読み、自分にとっての孤独とは何かを考えたこと。そして、父が病気になったときに家族の中で自分一人だけが知らされなかった悲しみや、10代の頃は母の気持ちが全くわからなかったと告白した。

ドリカムの歌詞を音読し、この曲が流行っていたころに私は大親友がいて、何にもない田舎に住んでいたけどとても幸せだった、あの子は元気だろうか、と連絡をとってみたこと。

こういうことを、何度も何度もこの一年間に繰り返してきたことで、今は作品の良さを自分の体験に寄せて、もしくは得た知識をグッと実感をこめて、ポツリポツリと自分の言葉で話せるようになった。

「自分の言葉で話せる」

このことは、今の私の幸福感を間違いなく高めている。

「好き」を語ることは楽しいし、それが自分の言葉であれば、自分自身の輪郭を作り上げている実感がある。

これからは、noteに書くことでもっと自分の言葉を紡ぎたい。今、そんなことを考えている。



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