見出し画像

「運が悪かった」で終わらせないで

私は自分のことを「運が良い人間」だと思っている。比較的厳しい家庭で育ったとはいえ、大学・大学院まで通い、就職もできた。好きなことを一緒に楽しんでくれる家族が居る。仕事で大変なとき、家族のことで辛い状況にあったとき、支えてくれる親友たちがいた。

人に恵まれているなぁ、と常々思う。

これを「運が良い」と言わずに、なんというだろう。

一方「運が悪い」という言葉には抵抗があった。

先週の金曜日、時計の針は深夜1時を回ったところ。私は、いつものようにデスクでPCに向かい作業をしていた。部屋の隅にあるソファで携帯ニュースを見いていた夫が思い出したかのように「自分は運が悪かったなぁ」と話し始めた。続きを聞いてみると、彼には今悩んでいることがあり、それはもともとの運が悪かったことが原因の一つだ、と考えていた。

思わず「運?どういうことなんだろ?」と振り返って質問すると、夫なりの考えを教えてくれた。
夫は、運について、私とは異なる考え方を持っていた。

彼にとっては、人生は分岐の連続であり、大事な分岐で当たりを出す人もいれば、はずす人もいる。その大事な分岐はバタフライ・エフェクトのように、その後の人生にずっと影響している。

だから、運は人生を左右する。運が悪い人はそこから挽回するのがとても難しいのだ、と。

「運が悪かった」

この言葉は、自分ではどうしようもなかった事実を一度受け止めるために、必要な言葉だ。そこは理解している。

ただ私は「運が悪かった」の一言で片付けてしまうと、うまくいかなかった原因を考えることがなくなり、同じ結果を繰り返してしまうのでは?とも考えてしまう。

それに、その一言で終わらせるのは、単純に、私には悲しすぎる。

自分のやってきたことに自信を持って。今回うまくいかなかったとしても、次の機会までに一緒に準備すれば大丈夫だよ。だから終わらせないで。もっと話そう。

その後、夫との会話は1時間以上続いた。夫が連続性で運を捉えているのに対して、私は個別の事象について語っていることがわかり、お互いになるほどねと納得したり、やっぱり違うんじゃないかな、と話した。

この時間が心地よかった。

それから私は、布団の中で、小さかった頃に「あんたは運が良いね」と両親からよく言われていたことを、ふと思い出した。

年が離れた兄たちが受験競争に苦しむ中、私は勝負強さや度胸があったので兄たちほど苦労した記憶がない。ピアノや水泳の大会の代表に選ばれたこともあった。もちろん、得意だったわけではない。ただ、同じクラスの中に習っている人がいなかったから、私が最低限できただけだ。

だから、運が良かったのは、その通りだと思う。
けれども、ちょっとした寂しさはあった。


私も夜遅くまで勉強したし、ピアノや水泳のレッスンはほとんど休まず通って、頑張ったのになぁ、と。


なんだ。

どうやら私は「運が良い」にも、あまり納得していなかったみたい。

そんなことがわかって、私は安心して寝ることにした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?